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お供養と稲作について

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2022.10.15

稲作

お供養の法要には必ずお仏供さんと呼ばれるご飯と、お華束と呼ばれる餅が供えされます。日本は、別名「豊葦原瑞穂国」(トヨアシハラノミズホノクニ)と呼ばれます。それは『古事記』や『日本書紀』に出てくる「豊葦原千五百秋瑞穂国」の簡略体で、葦の穂の豊かにめでたく生いしげる国という意味で、瑞穂はみずみずしい稲穂のことで、稲が沢山取れる瑞穂の実る国ということです。それが表しているように日本は稲作の国ということです。

稲作とは

「稲作」とは言葉のとおり、稲を栽培することで、米を作って得るために北緯五十度から南緯三十五度までくらいの範囲の世界各地で行われている農業で、世界の米の生産の約九割はアジアで行われていて、南アメリカのブラジル、コロンビア、アフリカのエジプト、セネガル、マダガスカルでも行われ、アメリカのカリフォルニアでも少し行われています。
稲は、まれに畑でも行われますが、主に水田で行われ、水田での栽培は「水稲」、畑での栽培は「陸稲」と呼ばれ、収穫された稲からは、米、米糠、籾殻、藁、が取れて、捨てるところがなく再利用ができる有効な資源なのです。
稲から取れるお米には、日本で食べられているもっちりした「ジャポニカ米」と東南アジアなどのパサパサしている「インディカ米」のニ種類があります。

稲作の起源

稲作の起源は、約一万年前の中国の長江流域の湖南省周辺の地域と考えられていて、かつては雲南省の遺跡から発掘された情報やその他の情報によって雲南省周辺からインドのアッサム州周辺にかけての地域が発祥とされていました。
長江の流域の草鞋山遺跡の植物の細胞組織に充填する非結晶水珪酸体を分析するプラント、オパール分析によれば、約六千年前にその地で野生の稲の集団のジャポニカ米が栽培されていて、インディカ米はジャポニカ米の集団に対して、異なる野生の集団が複数回交配を繰り返してできたと考えられています。

稲作の世界の分布

稲作の分布は
中国では今から八千年前から五千年前頃までは、黄河の流域を北限とした地域に限られているのですが、五千年前以降は山東半島の先端部にまで広がったと考えられています。
東南アジアと南アジアには、今から四千五百年より後に広まったと考えられています。
中央アジアと西アジア、トルコには中央アジアから乾燥に強い陸稲が伝えられたという説や、インドからペルシャを経由して水稲が伝わったという説があります。
アフリカには、二千年から三千年前には西アフリカのマリ共和国で栽培されて、それが周辺国へと広がっていったと考えられています。
ヨーロッパへは、ローマ帝国が崩壊した頃にムーア人によってイタリア半島に伝えられました。
アメリカ大陸には、スペイン人やポルトガル人によって伝えられプランテーションの作物となりました。

稲作の日本への伝播

日本に稲作が伝わったのは、縄文時代には稲作が伝わったと考えられていて、
伝播するルートについては、「南方経由説」「江南説」「朝鮮半島説」の三つの説があるのですが、朝鮮半島ではジャポニカ米の稲の遺伝子の一部が確認されないことから、江南ルートが有力とされていいます。
宮城県の桝方囲貝塚から出土した土器の底に籾の圧痕がついていたことや、青森県の風張遺跡から、約二千八百年前と思われる米粒が見つかっているようなことから縄文時代には始まっていた可能性があり、佐賀県の縄文時代晩期の菜畑遺跡で最古の水田跡が見つかっていて、縄文時代晩期には行われていた考えられるが、確実に稲作が行われるようになったのは弥生時代だと考えられています。それは青森県の砂沢遺跡から水田の遺構が発見され、弥生時代前期には稲作は本州の全ぶに伝播したと考えられます。
弥生時代の中期には、種もみを直接水田に撒く直播栽培から稲の苗を植える田植えに変化してえ、農耕具も鉄製に変わって行き生産性が大きく向上しました。
古墳時代になると土木技術も発達し畔畔に囲まれた水田が形成され、律令制になり、水田を条里制で区画して班田収授制が行われるようになりました。

日本の稲作

鎌倉時代になると牛や馬によって耕したりすることが行われるようになり、米の後に麦を育てる二毛作も始まって、室町時代、戦国時代になっていくと新田開発や河川改修が行われるようになり、豊臣秀吉による太閤検地で土地の稲作生産量を石高で表す石高制が確立していき、江戸時代になって、開墾がもっと盛んになり、江戸時代初期に全国で田んぼが150万町歩、米の生産量が1800万だったのが江戸時代の中頃になると、300万町歩、米の生産量は2600万石にも増大しました。明治時代になると江戸時代に蝦夷地と呼ばれていた北海度の石狩平野でも米作が行われるよにうになっていったのです。明治時代米の生産量はまた増大したのですが人口が急激に増えたので、米は足らない状況で、戦争の時期も米が圧倒的に不足していて、戦後も干拓などで田んぼを増やしていったのですが、食生活の変化で米が余るようになっていき、政府による減反政策で米の生産調整をされるようになりました。

まとめ

食生活の変化は凄まじく、これは戦後の食糧難の時にアメリカから小麦を援助してもろいパン食が広まって、学校の給食でもずっとパン食だったこともあり、米を食べないようになっていったからでしょう、それと肉食やおかずを沢山食べるようになったことも影響してるでしょう、しかもそれによって食料自給率あ大幅に低下してしまいました。日本国民は食料自給率が下がってもあまり深刻に思っていないようですが、ウクライナをロシアが侵略して、小麦が世界に供給しずらくなってきているようなことがもっと起こった場合、慌てふためくことになるのかもしれません、また米作りを取り巻く環境が厳しくなってきていて、後継がいない、高齢化によって農作業ができなくなる、米を作っても採算が取れないということになってきていて、蓮通寺の門徒さんでも、以前は商店をやっている家以外は全て米農家だったのが、今では片手で数えられるくらいに減ってしまいました。このままでは米作りがダメになってしまいます。これは日本全国も同じような状況で、瑞穂の国とは言えなくなってしまいます。
日本の国民はこのことを他人事でなく、自分のこととして真剣に考えなくてはならない時期に来ているのではないでしょうか。自分だけが良ければいいのではなく、周りも地域も国も良くなるためには、自分を抑制する、自分に伝えられてきたことを大切にすることが必要ではないでしょうか、これはお悔やみに関することも同じで、今世間で行われているから流行っているからというので、ただお骨を送るだけではなく、「恭敬の会」で行っている僧侶が訪問して、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前でお勤めをしてから、お骨を預かりし、丁寧に納骨をすることが大事なことではないでしょうか。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経。永代供養は、これからますます必要なっていきます。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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