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ところかわれば

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2022.07.25

ところかわれば

ところかあれば品変わるって言葉があります。
それは、土地が変われば、いつもは当たり前と思っていることも違ってくる、という意味です。
例えば、お雑煮の餅が四角と丸、それは徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原を境にして、西が丸で東が四角の餅となるようです。実際に現地で調べてみると、元の「不破関」(古代の三関、不破関、鈴鹿の関、愛発の関)を境にして西は丸餅、東は角餅となっていました。

ところ変われば、食べ物の続き

丸餅、角餅を分けるだけでしたら、二種類と言えますが、それに味付けやお汁の種類となるとさまざまな種類になります。京都でしたら丸餅に味噌で煮込む、東京でしたら角餅を焼いておすまし汁につけて食べる、、他のところでは丸餅でおすまし汁、角餅で味噌というともあるようです。それが「ところかわれば品物変わる」というのがよくわかります。
餅の他にも沢山の「ところかわれば」がありますからそれらをあげてみたいと思います。

お出汁

お出汁で思いつくのは、京都や大阪を中心とする近畿では、昆布で出汁を取り色っも味つけもが薄めですが、東京などでは鰹で出汁を取り、色も濃く味も濃い味付けです。初めて東京でうどんを食べた時、見た目が真っ黒に見え、濃い味付け
でびっくりしました、これには未だなかなか馴染めません。不思議な物ですね。
玉子焼きも、だし巻きやお醤油をほんの少しだけ垂らしたのや、砂糖で甘くしたものがあります。いつぞや、東京ではないのですが、大好きな茶碗蒸しをお料理の最後の楽しみにしておいて、締めにと思い食べたら甘くて、これは何だと覆ってしまったことがありまいた。えもこれは好みの問題ですね。

食べ物だけでなく、所変われば品変わるってのはあります

言葉についても、「ところかわれば」というのは凄くあります。
東北の言葉、関東の言葉、東京(江戸)の言葉、東海の言葉、甲州や信州の言葉、北陸の言葉、京都の言葉、大阪の言葉、神戸や播州の言葉、岡山の言葉、広島の言葉、四国の言葉、北九州の言葉、南九州の言葉、沖縄の言葉と、ほんとさまざまあります。
今はNHKなどが標準語で話すようにしているので、テレビでのニュースは標準語に統一されています。バラエティなんかで大阪の芸人さんが沢山出ているので、最近は主に大阪弁もテレビではよく耳にします。
昔、聞いたことがある逸話なのですが、ある時、新幹線に乗る前から大阪ん人は大阪弁で喋っているのですが、名古屋の人は、新幹線が発車するまでは標準語を喋っていたのに、新幹線が発車した途端に名古屋弁を喋り出した、という話なのですが、名古屋人と大阪人の気質の違いが出てるような気がします。
言葉と言えば、イントネーションも違いがあり、関東の方では語尾が上がっていくのに対して、京都大阪近畿では語尾が下がっていきます、これは我々浄土真宗の蓮如上人が作られた「御文」や親鸞聖人の伝記である「本願寺聖人伝絵」を拝読するとき、これらの拝読物は京都弁のイントネーションですから、関東の方達には難しいと言われています。


習慣や家なのの建物んども

習慣や家などの建物についても 「ところかわれば」はあります。
北海道では結婚披露宴が会費制がほとんどと言われています、方や近畿では、ご祝儀を持参し、宴のお食事、引き出物等は主催する家が準備します。
また、家も北海道では整然と区割りされた敷地に道路から余裕を持って立てられていて、大陸的だと感じます。それに対して京都や大阪では雑然として隣と本当に近く
くっついているのではないかというくらいに思えます。それは今日北海道の札幌から帰ってきて電車からの景色を見て感じまうした。
また、屋根が山口県や広島県あたりの民家の瓦は赤い瓦が多いのですが、北陸に行くと黒い瓦が多く、近畿や東海では燻銀色したのが多いのです。
それは神社やお寺の建物でも「ところかわれば」というのがあります。
東京や関東の神社、お寺の建物と、近畿地方の神社お寺の建物では、何となく違いがあり、それは武士の好みと、公家の好みのような違いが見受けられます。

宗教においても「ところかわれば」が

宗教、特に仏教においても、「ところかわれば」というのがあります。
それは、北海道を例に挙げれば、昭和になるまで、禅宗は曹洞宗がほとんどでした、それは開拓に曹洞宗が熱心であったからです。浄土真宗でも、佐幕派だとおもわれていた東本願寺が北海道開拓を命じられ、東本願寺二十二代新門の現如上人が、自ら北海道に赴かれ道路を開れ、それから北陸の門徒方が入植され、その方々の心の拠り所として、北陸のお寺の次男や三男の人たちが渡られ、お寺を建立されたので、以前は浄土真宗と言えば東本願寺ばかりでした。
青森から南の東北(奥州)は、領地として納めていた領主の意向によって宗派が決められていて、今でも東北地方には浄土真宗はあまりありません。
関東地方も同じで、親鸞聖人が関東各地を回られて遺跡も沢山あるのですが、領主の意向で浄土真宗は少ないです。千葉県では流石に日蓮聖人が生まれられたところなので日蓮宗が沢山あります。
東京は、幕府のお膝元ですから、東西本願寺は最初は神田に建てられたのですが、西本願寺はのちに海を埋め立てて開発するようにと命じられ、築地に別院を建て、それが今では、大きな葬儀は青山葬儀場か、築地本願寺かと言われるようになりました。
対する東本願寺は、賑やかであった浅草に場所を与えられて浅草本願寺とい割れるようになりましたが、浅草寺は仲見世もあり凄い人出ですが、浅草本願寺の方はひっそりとしています。
各地をみってみると、愛知県の三河は徳川家康が松平元康と名乗っていた頃より前から本願寺の門徒が多く、家康の家臣団でも三河一向一揆に加わったものが沢山いたのと、尾張は徳川御三家筆頭の尾張徳川家の領地といいうこともあり、尾張、三河ともに幕府の意向もあり、浄土真宗へ東本願寺が大多数です。
また、北陸では加賀前田家は外様で最大の百万石で幕府から目をつけられやすいということもあってか、幕府よりと思われる東本願寺が大多数です。ところが徳川一門の越前では東西本願寺が半分ずつくらいです。
滋賀県では近江は京都のすぐ近くということもあり、大きな藩は置かれず、徳川家の先鋒を務める井伊家が彦根で35万石を領していて、東本願寺が大多数です。同じ近江でも、他の地域は東西在本願寺は半分ずつというようになってます。大阪はあ大阪城の前身は石山本願寺だったこともあり、お寺の多数派本願寺で、東西が半分ずつ暗いです。大阪以西は浄土真宗では西本願寺が多数を占めているのですが、福岡県の久留米では、領主の有馬氏がある時、西本願寺の門主に恥をかかされたからと、領内では西本願寺を許さず、全て東本願寺に変更させたということまあって、明治までは西本願寺のお寺はなかったようです。久留米と筑後川を挟んだ佐賀県の鳥栖も、対馬藩で領主の意向で東本願寺のお寺が多数を占めてます。




まとめ

ところかわれば というのはさまざまな事柄に関わって、いて、宗教もそれによって分布が違っているのですが、所変わっても違わないのは、亡き人への想いと、それを大切にして手を合わせ感謝の念を持つ事ではないでしょうか。
その想いを大事にして日広めていくのが、恭敬の会の 送骨 訪問預骨、永代経、永代供養なのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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