Blog ブログ

みちるの誕生日

ブログ

2022.09.07

みちるの誕生日

平成三年(西暦1992)九月七日、愛知県のお寺に一昨年嫁いだ我が家の長女の「みちる」が誕生しました。
結婚して三年目にしてやっと産まれてきてくれ、産まれるまで性別を聞いていなかったので、名前を考えるのを男子だったら私が、女子だったら内室殿が考えると言うようにしていたので、「みちる」と言う名前は内室殿がつけました。しかもいま流行りのキラキラネームのように当て字にするのは、漢字の意味がなくなってしまうのと、名前を読んでもらえないかもしれない、女の子だから平仮名が可愛くて良いと言うことで、平仮名の名前になりました。

みちるが誕生して

みちるが誕生する半月前から、内室殿は里の桑名市に帰っていて、九月七日のお昼前に、陣痛が始まったとの連絡があって、私は勤務中でしたが、上司にお願いして半日休暇をいただき、いそいそと車で桑名に向かい、午後二時前に産婦人科病院に到着し、待合室で待ってと思っていたら、分娩室に入れられ立ち会い出産になったたのですが、なかなか出てくるまでに至らず、内室殿の手をずっと握っていたのですが、午後五時過ぎになって、やっと出てきてくれ、無事産まれてくれてすごく嬉しいのですが、なんだか疲れてしまったのと、やはり出産は男は立ち入ってはいけない領域ではないか、ということを強く感じました。
2720gの女の子で、無事産まれてきてくれたことを、祖先と仏様に感謝しました。

誕生から幼稚園までの成長

産まれてくれて、「みちる」と命名し翌々日に産まれた産婦人科病院がある桑名市の市役所に出生届けを出し、我々夫婦の戸籍にいれ、私の両親も、内室殿の母も、親類の人々も、蓮通寺の門徒さん方も祝ってくださり、それ以降家族で可愛がり、育てていきました。それは歩くようになってから、ふらついてこける前には必ず手を差し伸べてこけることのないようにしたり、これは後に反省材料になりますが。歩き出してすぐにハワイに連れて行き、怪獣の服を着せて歩いていたら、ホノルルの人たちに手を振られ微笑まれたり、幼稚園の入園試験の面接でな受験番号が遅いと、長く待って機嫌が悪くなって面接で上手に受け答えができないといけないからと、幼稚園入園試験のために私は徹夜して一番の受験番号をとり、そのせいかどうかわかりませんが合格して京都女子学園京都幼稚園に入園できたこと、住んでいた新町七条の家のすぐ近くにヤマハ音楽居室があり、毎週音楽教室に通い、その仲間でミニーちゃんの服をきて音楽発表会に出たこと、ガールスカウトに入れて色々活動に加わり、ある時泊まりでの活動があって、みちるは躊躇してきたくないなんていうのかと心配していたら、ケロッとしてニコニコして出かけていき、思い過ごしだったと胸を撫で下ろしたこと、私の両親の住む蓮通寺には毎月帰っていて、そのたびにみちるは「おばあちゃんちはまだ」と十分おきくらいに尋ねてきて、それを両親(みちるから言えば、おじいちゃんとおばあちゃん)にはなしたら、たいそう喜んでいたたことなど幼い頃を思い出すと、沢山あってとめどなく出てきます。
成長してから、結婚する前の年、葵祭の女人列の「命婦」に選ばれ、葵祭に参加したこと、結婚式には綿帽子と打ち掛けと決めていたようなので、嫁ぐ前に門徒さんに挨拶行う「立ち経」では、小袿長袴の装束でと思っていたのですが、新型コロナウイルス感染症蔓延につき、記念品をお配りするだけになってしみました。

成人になり嫁ぐまで

幼稚園が京都女子学園の京都幼稚園打たこともあり、小学校は京都女子大学附属小学校に進み、中学、高校、大学と、ずっと京都女子学園にお世話になりました。父が遷化し私が蓮通寺の住職となったため、家族みんなで蓮通寺に帰ったので地みちるは中学二年生からはJR湖西線で通学することになり、毎日2時間近くかかるところを頑張って通ってくれました。湖西線は比良山の辺りで強風っが吹き、よく止まってしまい、米原経由で帰ったりといこともちょくちょくありましたし、週に一度、授業が始まるまでに「仏参」(京都女子学園は西本願寺系の学校なので毎週ありました)があるので、それには一番の電車に乗っても間に合わないので、京都で私と一緒に毎週泊まることにしていました。
高校から、弓道部に入り、このまま行けば毎年行われる三十三間堂の通し矢に出られるかと期待していましたが、それは叶いませんでした。
高校の卒業式では、最近世間の卒業式では歌われなくなった「仰げば尊し」を、全卒業生四百人以上での合唱があり、もの凄く感動しました。
短大を卒業して、十六年間の京都女子学園生活が終了し、高島市民病院の医療事むについて、高島市の医療のお役立ちができるようになりました。
私の大学時代からの友人のお世話で、友人の実家である愛知県のお寺の次期住職と結婚が決まり、そのすぐ前には葵祭の女人列(斎王代の前に歩く)で「命婦」という女官の役をさせていただくことになり、京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社までの8キロを歩かせていただき、あの葵まつりから三年間は女人列も葵祭の行列もおコロナで行われていないので、本当に良かったと思うのと、私は毎年衣紋道研究会の一員として、葵祭の衣紋の奉仕をさせていただいているのでエスが、娘が女人列に出させていただいたことで特別な葵まつりとなり、感慨深いものとなりました。
結婚式は、私の希望としては衣紋の関係もあり、有職の装束にして欲しかったのですが、結婚式は白無垢わた帽子、色打ち掛けと決めていたらしく、私の希望は叶えられなかったのですが、嫁ぐ前に門徒さんの婦人方に宴席を設けて挨拶をする「立ち行」というのがあり、それは「小袿長袴」にすることになったのですが、コロナウイルスのために「立ち行」は行えなくなってしまい、一番最初の画像のように記念に写真だけ撮ることになりました。
結婚式も披露宴も無事済んで、それから夫婦仲も睦まじく、嫁ぎ先のご両親とも仲良く幸せに暮らしていてくれているので、安心しているのと、これからも幸せでいつくれることを願っています。


まとめ

みちるが産まれてくれた平成三年は、世界にとってこれほどのことは滅多にないというくらいの激動の年でソビエト連邦が崩壊し、これで冷戦も終わり民主的で平和な世界になって行くのかと思っていたら、願いも虚しく今のような不安な世界のとなってしまいました。
みちるは、我々夫婦と周りの次の世代に伝えたい、伝える人が産まれて欲しいという願いのもとに産まれてきてくれたのです。この願いは「恭敬の会」にもあります。
それは、亡くなった方やその家族や縁者の方たちが、ただお骨を送るだけで納骨されることで、後に心配になったり後悔することのないよう、してもらいたいという願いを持って、訪問して礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、丁寧にお勤めしてからお骨を預かり、納骨することで、安心してもらえることを目標としているのです。
恭敬の会の骨 訪問預骨 永代経、永代供養は、皆さんの安心を願っています。

恭敬の会 訪問預骨

この記事をシェアする