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インスタントラーメン

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2022.08.25

インスタントラーメン

昭和三十三年(西暦1958)八月二十五日、世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」が大阪の日清食品から発売されました。
NHKの朝ドラ「まんぷく」では、主人公を演じるの長谷川博巳が次から次へと事業を手がけて成功と失敗を繰り返し、試行錯誤して大変な苦労をしてインスタントラーメンを発明して製造し、発売し、それが社会に広まってったのが描かれていました。

安藤百福

「チキンラーメン」の開発者である安藤百福氏は、明治四十三年(西暦1910)に日本が統治していた台湾で生まれ、出生した時の名前は「呉百福」で、日本国籍でしたが、終戦後中華民国籍となり、昭和四十一年(西暦1966)再び日本国籍を取得しました。
台湾で育ち、成人したのち、祖父の繊維問屋を手伝い、その後父の遺産で昭和七年(西暦1932)東洋莫大小(とうようめりやす)という繊維会社を設立し、翌年に大阪に日東商会という会社を設立してメリヤスを扱ったのです。
戦争の頃は「幻灯機」などの製造を行い、また軍需工場の経営にも携わったのですが、憲兵隊に捕まり留置場に入れられたこともありました。
戦後になり、食糧難の中で、「衣食住とは言うが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることとし、これが後に日清食品の企業理念の「食足よ平(食足りて世は平らか)」となったのです。昭和ん十三年(西暦1948)、後の日清食品のなる「中交総社」を設立し、専門家を集めて「国民栄養化学研究所」も設立して、牛や豚の骨からタンパク質エキスを抽出することに成功し、「ビセイクル」として病院にも供給したのです。それからGHQから脱税の嫌疑をかけられたり、大阪華銀の事件では背任で有罪判決を受け、また振り出しに戻って、大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメンを作るののに取り組んで(1、美味しくて飽きがこない、2、保存性がある、3、調理に手間がかからない、4、安価である、5、安全で衛生的)の五つの要件を満たすべく、日夜努力して失敗を繰り返しながらも「チキンラーメン」を完成させたのです。

ラーメンとは

ラーメンとは、中華麺とスープを主体として、チャーシュー、メンマ、ゆで玉子、刻みネギ、などの色々な具を組み合わせた麺料理で、漢字で表すと「拉麺」「老麺」と表記し、別名は中華そば、支那そばと呼ばれ、共産中国や台湾では「日式拉麺」や「日本拉麺」と呼ばれます。
ラーメンの由来は、いくつかの説があって、一つは、中国西北部の蘭州の麺の一種の「拉麺」がもとという説で、拉は引っ張るという意味で、蕎麦屋うどんの良湯に刃物で切り付けて細長くするのでなく、手で引っ張っ伸ばしてい機、手打ちで作られます。
二つ目は、「老麺」が由来とする説です。
三つ目は、大正十一年(西暦19220札幌市の「竹屋」といいう食堂が由来とする説で、竹屋食堂では、店主の妻が厨房の中で働く中国人の料理人が大声で「好了(ハオラー)」と返事するのが気に入って「ラーメン」にしたとうものです。

日本におけるラーメン

日本で初めて中華麺を食べたのは、万治二年(西暦1659)明から亡命した朱舜水という儒学者が水戸判決に招かれて、その所持品の中に中華麺を作る時に用いるものが含まれていて、実際に作ったと思われていて、元禄十年(西暦1697)に、水戸黄門の愛称で知られる徳川光圀の隠居所の西山荘を訪れた僧侶や家臣たちに中華麺が振る舞われたといいう記録も残っています。
日本で広がるのは、明治時代のなり神戸や横浜などの港町に中華街が出来上がり、そこで提供された南京そばが始まりとされていて、明治四十三年(西暦1910)横浜税関を退職した尾崎貫一が、南京町から中国人料理人を雇用して、浅草にラーメンを主体とした中華料理店「来々軒」を開店したことことから広まっていきました。

ラーメンが日本の食卓に欠かせない物に

ラーメンが普及していったのには、二つの流れがあって、一つは中華街(南京町)などでの華僑に人達が営む中華料理や、戦前浅草の来々軒に始まって戦後は中国や満州からの引き上げた人達が作っている日本風の中華料理屋さんのメニューとしてのラーメンで、もう一つは、屋台で作り上げたいかれ販売されていき、その流れを汲んでいる固定店舗を開店したしたラーメンで、安い材料で美味しくて栄養のあるラーメンは、物資が乏しい戦後にはうってつけだったと言えます。
支那そば、南京そばと呼ばれていたのが、中華そばになり、現在になって「ラーメン」として爆発的に普及したのには、やはり安藤百福氏が開発したインスタントラーメンの「チキンラーメン」の功績が大きいです。
チキンラーメンは発売された当時は、うどん一玉6円だったのがチキンラーメン一袋(85g)は35円と高価でしたが、熱湯をかけて三分後には食べられるという手軽さが受け入れられていき、爆発的なヒットとなり、それがカップヌードルに発展していったのです。

まとめ

安藤百福氏が開発したカップヌードルは、日本の食事に革命をもたらしたと言っても過言ではなく、安藤氏が定義した五つの定義の五つ目の「安全で衛生的」というのは、一番大切なことで、栄養補助食品のサプリメント勧める集まりなんかで、チキンラーメンが発売されてから、日本の食品が添加物だらけになった、だからサプリメントを取りましょうという発言が繰り返されましたが、安藤氏が定義した「安全で衛生的」が守られているから、六十年以上にわたって食べ続けられているのではないでしょうか。この画期的で安全、簡単ということは「恭敬の会」にも当てはまることで、画期的で負担が少ないけれど、依頼される方も周りの皆んなが安心できることなのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、広く受け入れられていくようになります。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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