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ハンコ

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2022.08.05

ハンコの日

八月五日は、「ハンコの日」で山梨県の会社が決めたようです。十月一日も「印章のひ、ハンコの日」で、こちらは全日本印章事業連合会が決めています。
ハンコは印章というのが本当で、実印、認印、銀行印などがあって、それぞれに役割があり、大切にされてきました。

ハンコの歴史

世界で一番最初の印章(ハンコ)は、現在から七千年前の、メソポタミアに世界最古の印章であったとされていて、粘土を偶然握ったことが始まりで、握った粘土からは手の形や指紋がついて、人間の社会で自分自身の証として印鑑は使われるようになったようです。その後、印象は円筒形になり、絵などが彫刻されて取引や契約などに使われるようになっていきました。それから後、メソポタミアの印象はギリシャやローマを経てヨーロッパ全土にまで広がって、またアジアにも伝わり中国、そして日本に伝わってきたのです。

印章の文化圏

印章の使われている地域については、現在ではヨーロッパなどはあまり使われていなくて、主にアジアで、日本、中国、香港、マカオ、台湾、南北朝鮮、ベトナム、インドネシア、ラオス、マレーシア、シンガポールなどです。

日本で一番古い印章

日本で一番古い印象は、西暦の57年ごろに中国の「漢」王朝から日本の「倭」の王に送ったとされる「漢倭奴国王」と刻印された金印が最古とされていて、これは西暦57年、漢王朝の光武帝が倭奴国王に送ったとされるもので、漢王朝は皇帝で、漢帝国に朝貢(皇帝に対して周辺諸国の君主が貢物を献上して、皇帝側は恩恵として返礼品を持たせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体を伴うこともあって、経済秩序としての性格もある)した国に、漢帝国が認めた国の王ということを示し、和国は漢帝国に朝貢して、漢帝国のもとに認められた国の王だという印の印章なのです。この金印は福岡県の博多湾の志賀島で、甚兵衛というお百姓さんが畑を耕している際に、鍬に固いものがあたって掘り起こしてみたら重くて輝く金の印鑑だったのです。それを福岡藩の藩主に献上し、藩主は福岡城下の唐人町位住んでいた学者の亀井南冥に研究させて、金印の正体がわかったのでした。

日本での印章の流れ

日本で印象が実際に使われるようになったのは、大化の改新の後の、大宝律令が制定されてから官印が用いられるようななったからのようです。平安時代の中頃から以降は官印はほとんど使われなくなっていき、その代わりに花押が広く用いられるようになりました。花押は公家、領主、武将などが用いたもので、庶民は爪印、か拇印などを文書に押していました。
戦国時代になると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった武将たちを中心として印鑑を押す風習が定着してきました。それは氏名以外を彫った遊印が多く見られて、織田信長の「天下布武」の印鑑などが有名です。
明治時代になると、法令によって「印鑑登録」が決められて、個人が一人一人が実印を個人の証として、印鑑は法的に管理されるようになったのであり、この制度が現在の「印鑑登録」の基礎となって今に至っているのです。

京都は日本の印章の中心

中国で発達した印象が我が国に正式に入ってきたのは、聖徳太子の時代だと言われていて、国の制度となったのは大宝律元年(西暦701)の大宝律令制定からで、平安京が開かれ都となってからは天皇御璽や、当時の役所(大蔵省や宮内省、兵部省など)の官印などが作られるようになり、今でも保存されている寺社の印鑑の中には平安時代のものも残っています。それがやがて江戸時代になると庶民にまで印章が普及していき、需要が増え印判師が誕生しました。そして、我が国最初の印判師と言える人が三条室町辺りに住んでいたようで、そのことから京都は院所中心地としても発展したいったのです。
京都の印章の特色は、中国の漢の時代の印象最盛期であったと言われる漢印の作風を受け継いでいて、いわゆる漢印篆(かんいんてん)を主体とした重厚で雅なふうが豊かな印章が多く作られているのです。現在宮内庁侍従職に保管されて、国家の文書に使用されている「天皇御璽」と「大日本御璽」は、明治七年に京都の中京区の住人、安部井檪堂が印司に任ぜられ、一年がかりで彫って製作したもので、漢印篆の堂々とした文字が彫刻され、純金製で重量は4,5キログラムにも及んでいます。

まとめ

コロナ禍で、世界中で出社せずに働くテレワークが広がり、我が国でもテレワークが推奨されていき、印鑑を押すために出社しなくてはならないのは、コロナ感染予防にもならないしテレワークの意味がないからということで、印鑑廃止が進み、また電子印鑑も普及し始めていて、これまでの長い伝統と歴史がある印鑑はどうなってしまうのでしょうか、印鑑を彫って作る技術も伝承して残していかねばならないとも思いますし、また、何もかもが効率化、便利になっていき、手間暇がかかることは廃れていくのは如何なるものかと危惧しています。このことは他のことにも言え、仏事、神事を非生産的でする価値は低いからと自分は思う、などと言ってお悔やみも行わない、法事も行わない、お墓も維持管理するのが負担になるから要らないし、墓じまいして、お骨はどこかに散骨してしまえばよいとなってきているのではないでしょうか。自分に生を与えて繋いできてくださった先祖がたの思いを、自分の今だけの考えで台無しにしてしまっては、後日必ず後悔することになります。「恭敬の会」は、後日後悔しなくてもよいように、お参りし弔いを行い、お骨を預けた後に礼拝の対象となるものをお渡して、預かったお骨は埋葬するので、粗末な」ことをしたと、後悔することは起こりません。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養はそのためにあるのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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