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七月三十一日

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2022.07.31

ノストラアダムスの大予言

今日は七月の終わりの三十一日です。
昭和四十九年から五十年代初頭にかけて、フランスの占星術師のノストラダムスが西暦1555年に著述した『予言集』が日本で紹介され、マスコミも大々的に取り上げて終末ブームとして騒いだ事がありました。その予言によると「1999年の7の月に恐怖の大王が降ってきて人類は滅亡するだろう」というもので、核戦争が起こるとか地球に他の星が衝突するとか色々言われていました。

恐怖に大王は

平成11年(西暦1999年)七月になって世界には恐怖の大王は降ってこず、核戦争も起きず、地球に星が衝突することも起きず人類は滅亡することも無く、七月を迎えて。その七月も無事終わろうとしていたので、世間やマスコミではノストラダムスの予言は当たらなかったとされました。ところがキリスト教徒でない仏教徒の私にはこともあろうか恐怖に大王が来たのです。それは、それまで提携とかがなかった事業所の、しかも関東地方のある所に出向し一ヶ月以内に家族もろとも引っ越せという命令でした。

出向命令が出るまでに

その出向命令はそのうちに出したくるだろうとは予想してはいましたが、七月になるとは思っていなかったので、偶然ですがノストラダムスの予言と同じ月になったのでした。
私は昭和六十一年に京都のとある財団法人に奉職し、理事長にも上司にも可愛がられ信頼され、先輩や同僚たちとも極めて仲良く、仕事も楽しく順調に十二年間勤めていました。ところが私に出向命令が出される一年半前くらいから、同僚や後輩が退職する事が増え、内部の機構も変わっていっていたのです。
彼らはおとなしく辞めていき、なんだか狙い撃ちされたような感じでした。

勤めていたところの流れ

その財団は大正年間に設立されたもので、昭和40年代後半までは理事数名と事務員2名くらいであったのが、昭和48年には他所が投げ出した事業を受け継ぎ事業拡大することになって事務職等十数人になり、それが10数年で三十名くらいに増えたのでした。
基本財産は30億円くらいの財団であったのが、とあることで基本財産が300億円になったのです。
私が入った頃はまだ30億円の基本財産でしたから、派手なこともせず、京都の昔の言葉で言えば「こーとな」職場で、皆が助け合って仲良く業務をこなしていて、私も理事長の随行等に勤しんでいて、評価も高くやりがいのある日々でした。
それが、とあることにより基本財産が300億円となってからは、様々な人が出入りするようになったのと、財務のほうも銀行から派遣、出向されてきた人が来るようになり、職場に雰囲気も随分変わっていきました。

職場の雰囲気が変わり

基本財産が30億円の時の職場内の雰囲気が、300億円になってからは激変しました。財務の部長も、金儲け第一でそれだけが評価の価値があるというような人になりましたし、新たに入ってきて役員になった人なんかは、私より年下なのですが、お口がとても上手で、理事長のもとに二人で呼ばれた時にも、私は理事長の質問に返事するだけしかできないのに対し、その人はものすごく流暢に話をして、私にはとても同じようにできないと感じたものです。
それで以前からいた職員が居づらくなったか、個人の理由かは分かりませんが、一人辞め二人辞めと退職していき、私もそれまでのやり甲斐ある部署から、異動っせられたのですが、それまで日曜や祝日は休みでなく家族と一緒に出かけることも少なかったのですが、日曜や祝日が休みになり家族と過ごしたり、家のお寺のこともできるようになったので、これはこれで良いとお思うようになり2年ほど過ごしていたのです。それと少しずつ資料やなんかを集めだし、資料が貯まってきて理事の方に会いにいったりしだしたところで、異動させられる前のことで弁護士事務所に行かされ事情聴取のような事もされ、追求する材料もなく、私が辞めないのが余程気に入らなかったのか、知らられるのが嫌だったかしれませんが、突然関東地方のある場所に2週間の研修を命じられたのでした。

出向命令の転居を

2週間の研修のを命じられ、次は出向かなんかを言って来るのではないかと予想はしていましたが、それまでは提携関係もなく職員の出向とかは全くなく、出向命令をする一日前に出向契約をして、平成11年七月に出向命令と、家族も転居するように言われたのでした。そこで、師匠に相談し理事長に手紙を書いたらとアドバイスをいただいたので、すぐさま手紙を書き、届けたのですが、返事をいただけず、父とも相談し、同級生が弁護士事務所に勤めていたこともあり京都地裁に出向停止の仮処分申請を行いました、あとで思えば出句停止でなく、解雇させられてから仮処分申請すればよかったと知りましたが、11月19日に地裁の裁定が降りるまで、家に電話がかかり、私の子供が「何時に出かけ、何時に帰ってくるかわかっているぞ」というようなことを言われたり、という良いうなこともあり、眠れない夜を過ごしました。地裁の裁定は仮処分の申請を却下するというもので、私は負けて翌年平成12年一月末をもって退職(それでも通常の依願退職ということで)しました。
あれが出向停止でなく、解雇されて解雇無効の仮処分だったら、多分勝っていただろうと、労働問題に詳しい人が教えてくださいましたが、後の祭りですね。

退職してから

退職後すぐにお寺に帰ってこないかと、父に言われたのですが、娘が私立の小学校学の三年生で、卒業させたかったのと、このまま尻尾を巻いて帰るのは悔しいという思いもあったので、京都に残りアルバイトをしたり、お寺の法務をしたりして何年か過ごして、お参りする家も増えつつあった平成一六年、父が膵臓癌で余命三ヶ月と宣告され、私は家族より半年先にお寺に帰り蓮通寺住職となりました。今でもたまに勤めていたところんの夢を見てうなされて目が覚めることがありトラウマになっているのでしょうね。

まとめ

仮処分が解雇無効だで行っていたら、勝っていて、退職する際にはもっとまとまった金銭が入っていて何かを起こしていたかもしれませんが、そうならなかったことで、色々苦労もしましたし、現在も苦労中ですが、それが今の自分をつくってくれたのだ、何を大事にしなくってはならないくを教えてくれ、進むべき道を示してくれているのだと思うと、得難い大事な素晴らしい出来事だと思い、やりがいはますます高まっています。これは自分だけの行いで得られたのではなく、たくさんの人々逆縁を与えてくれた人々も善知識の一人だったのです。それはやはり仏の教えの「縁」であり「因縁」にあっていたから自覚できたもです。このような逆縁も縁なのだと知ることができるのが、親しい方が亡くなるという悲しい縁によって繋がっていくのが、恭敬の会で、恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は手を合わせて、亡き人や自分の縁に感謝していけるもとなのです。

恭敬の会 の送骨 訪問預骨

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