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乃木大将

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2022.09.13

乃木大将について

本日九月十三日は明治の乃木希典大将が大正元年に亡くなった日です。
乃木大将は明治天皇からとても信頼されていて、孫の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係とするほどのもので、乃木大将も明治天皇を誰よりも敬愛し、大正元年九月十三日「大喪」が行われた夜八時ごろに、夫人の静子さんと共に自死されたのです。
このことは亡くなった私の祖母が話をしてくれ、よく覚えています。

乃木希典大将の誕生から成人まで

乃木大将は、乃木希典という名前で、嘉永二年(西暦1849)十一月十一日に、長州藩の支藩であった長府藩の藩士の乃木希次の三男として江戸で生まれ、兄二人が亡くなっていたために後継ぎとなりました。父の希次は江戸藩邸詰めであったので希典は十歳まで江戸で育ち、父によって厳格な育て方をされました。
安政五年(西暦1859)父が江戸詰めから国元に戻ることになり、希典も同行して長府に移り住み、長府藩の鍛錬道場の「集童場」に入って、文久三年(西暦1863)元服して、名前をそれまでの「無人」から「源三」と改め、十六歳になった時に父の許しを得ずに萩に向かい、萩の兵学者の玉木文之進のでしたおなり、その後萩藩の藩校の明倫館通学し、元治二年(西暦1865)長府藩報国隊を組織し、第二次長州征伐では小倉戦争に加わっって武功を上げたのです。
その後、慶応四年(西暦1868)藩の命令で伏見御親兵兵営に入隊し、明治四年(西暦1872)黒田清隆の推挙により、大日本帝国陸軍の少佐に任官されました。

少佐任官から大将になるまで

明治四年(西暦1872)十二月、乃木源蔵は名前を「希典」に改め、明治六年(西暦1873)福井の越前護法大一揆を鎮圧し、翌年から陸軍卿の山形有朋の副官となり、明治九年(西暦1876)、福岡県で起こった「秋月の乱」を平定し、明治十年(西暦1877)の西南戦争で、薩摩士族の軍と戦った際に、乃木の連隊の連隊旗を奪われ、これが後の自死の理由にもなったのです。西南戦争ののち大佐となり、明治十六年(衛歴1885)少将に任ぜられ、政府の命令でドイツに留学し、ドイツ陸軍について学びました。それからは常に軍服を着用し質素倹約にに務めるようになり、明治二十七年(西暦1894)日清戦争が始まり、多大な武功を上げ中将に昇進し、明治二十九年(西暦1896)清から割譲された台湾の総督に任じられ、翌年には辞職しました。明治三十七年(西暦1904)日露戦争が勃発し乃木は第三軍の司令官に任命され、戦地に赴き同年六月六日に対象に昇進しました。

日露戦争

日露戦争は、明治三十七年(西暦1904)二月から翌年の明治三十八年(西暦1905)九月にかけて、日本とロシア帝国の間で行われた戦争で、それ以前から南下政策をとって、ロシア帝国は満州や関東州の租借権や鉄道」敷設権の利権を確保し、満州にロシア帝国軍を駐留させるという満州還付条約不履行の維持、朝鮮半島の利権を拡大し半島を支配することを目標にしていて、日本はロシアの南下政策による侵略を防いで、朝鮮半島を守ることで、日本の安全保障を堅持しようとしていて、それによって、対立が深まり、戦争に突入していったのです。
ロシア帝国は強大で、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたのですが、西欧諸国もアメリカも日本に勝ち目はないと思っていて、戦費を外債によってしか調達できないので、物凄く困っって苦労したのですが、なんとか調達できて、明治三十七年二月六日に戦端が開かれ、二月十日に宣戦布告され、日本海軍が旅順港への攻撃を行い、陸軍は鴨緑江でロシア軍と対戦し、それを破り、遼東半島の付け根の南山の戦いでロシア軍陣地を攻略し、大連を占領し、旅順要塞を攻略するのに乃木希典大将を派遣し、物凄い激しい戦いののち旅順要塞の要である203高地を攻略し、ロシア軍旅順要塞司令官のステッセルは降伏し、有名な「水師営の会見」で乃木大将は極めて紳士的に接し、それは世界的にも賞賛されました、それからロシア軍の拠点である奉天に向けて進撃し、奉天の会戦で辛くも日本は勝利し、ロシア軍は撤退したのです。
海軍は黄海の海戦で勝利し、ロシアのウラジオストック艦隊は活動を停止しなくてはなりあなくなりました。その後ロシアが派遣したバルチック艦隊が七カ月に及ぶ航海ののち、日本の近海に到着したのですが、東郷平八郎率いる日本連合艦隊と激突し、有名なT字戦法で日本連合艦隊が完勝し日本海海戦を勝利しました。それによってアメリカのセオドア、ルーズベルト大統領の仲介で日露両国は講和し、ロシアはロシア革命が起こり、日本も戦争を継続できる国力がなかったこともあり、日露戦争は終結したのです。

日露戦争の後

日露戦争が終結し、乃木大将は日本に凱旋帰国し、二人の息子も戦死していることもあり、国民は他の将軍たちとは全然違う大歓迎となったのですが、乃木大将は沢山の将兵を戦死させてしまったという自責の念で、宮中に参内し明治天皇に拝謁した時も、自刃したい旨を奏上したのですが、明治天皇はそれを禁じ、天皇が亡くなるまでは死んではならないとの趣旨のことを話されたようです。
それによって、明治天皇が崩御され、太宗が行われ自刃されたのです。
乃木大将はその後、創設された野木神社に祀られ、人々の信仰を集めることになりました。

まとめ

乃木大将は、実直で責任感が強い人で、自分が指揮した旅順要塞攻撃であまりにも沢山の将兵を戦死させてしまったと、自責の念でたまらなかっったのでしょう。
そうまでして、責任を取るという人は今の世の中にはほぼ皆無と言っていいのではないかと思います。それと、今は自分のことだけを考え、お世話になった方々を大事に思い、丁寧に供養することができなくなってきています。それは費用も嵩むようなお悔やみ、が多いからかと思います。「恭敬の会」は、費用の負担があまりなく、それなのにお伺いし礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、丁寧にお勤めしてから、お骨を預かり納骨します。それが後に自責の念に捉われないことになるのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、広い人々の安心のためにあります。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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