Blog ブログ

京都市電

ブログ

2022.10.01

京都市電について

昭和五十八年(西暦1978)九月三十日、日本で最初の電気路面電車の京都市電が営業を終了しました。明治二十八年(西暦1895)に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業し、明治三十五年に市営路線が開設され、その後全面的に京都市営化されて、市民の足として親しまれていたのですが、モータリゼーションの変化などによって、八十三年の歴史に幕を閉じました。

京都市電の歴史

江戸幕府が終焉し明治維新となり、江戸が東京都なり明治天皇は東京に行幸されたままになって、京都は首都の地位を失い衰退していたのですが、その挽回策として政府から京都市に下賜金が渡され、それをもとにして琵琶湖疏水が計画され、当初は水車に利用される予定であった疏水の水が発電に使えると言うことを知った疏水の設計者の田辺朔郎が、急遽アメリカに行き世界初の水力発電を調査して、帰国してすぐに設計を変更して蹴上に水力発電所を建設したのですが、まだ電灯が普及してなく、電力の使用がも込めず、産業用の動力としても
見込めなかったのであり、路面電車で電力を使うことが考えられ、電気鉄道が敷設されることになりました。
一番最初の路線は京都の南部の伏見(昭和六年京都市に編入)から京都駅前近くまでの路線で、その後に京都駅前から高瀬川沿いに北上し、2畳で鴨川を渡って鴨川の東の岡崎まで延長されました。これは岡崎で開催される予定の内国勧業博覧会会場への足として、大阪から淀川を船で上がってくる客えい見込んでのことのようでした。それから京都市によって明治四十五年(西暦1912)四路線7、7kが開業したのを皮切りに路線が次々に建設されて、京都電気鉄道は京都市に買収されました。それ以降路線は戦後になるまで延長され、最盛期は76、8k、車両保は351両にもなり、乗客も昭和三十八年には一日平均564,488人もの利用者がありました。

市電の衰退

昭和四十年代になると自家用車が普及していき、乗客が減少していき経営収支が悪化していき経営が困難となった路線から順次廃止されていきました。当時はモータリゼーションの進展と地下鉄の敷設こそが進歩の象徴で、大都市の条件であるとする風潮があって、路面電車を故意に時代遅れのものだとするキャンペーンのようなものもありました。提示性を確保して乗客が離れていくのを食い止めるために、自動車が併用軌道を乗り入れるのを全面禁止するべきだという声が上がったのですが、京都市は一部の路線を除き実施しなかったのです。また実施された区間でも乗り入れ禁止が徹底されたとは言えない面もあり、定時性が保てないことで、運行ダイヤを停留所に掲示できないことになり、乗客が離れていくという悪い流れが進んでいきました。昭和四十四年(西暦1969)当時の京都市長の富井清市長の時に、十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網の新たな交通計画が可決されて、外周(東大路通、北大路通、西大路通、九条通)を除く市電の撤去が定められてしまいました。これには累積赤字で交通局が財政再建団体に指定され、当時の自治省からの利子補填補償などの支援、監督を受けるには赤字事業の縮小として路面電車の撤去が求められたという事情みあったのです。
市民により存続運動もあったのですが、京都市は応じず昭和五十一年(西暦1976)に市電の全面撤去へと計画を変更し、昭和五十三年(西暦1978)地下鉄開業に備えて全面手に廃止となりました。

路線

路線は、
10系統が、京都駅前、七条西洞院、四条西洞院、四条堀川、堀川中立売、千本中立売、北野車庫前、北野
1系統が、壬生車庫から四条大宮、祇園、百万遍、千本今出川を経て壬生車庫
11系統が、京都駅前、烏丸今出川、千本今出川、壬生車庫前、七条大宮、七条烏丸、京都駅前
20系統が、千本北大路、白梅町、千本今出川、壬生車庫前、四条大宮、四条河原町
21系統が、銀閣寺道、天王町、熊野、祇園、四条大宮、壬生車庫前、千本北大路、烏丸車庫前、四条烏丸
4系統が、京都駅前、烏丸車庫前、市電金閣寺、西大路七条、七条烏丸、京都駅前
5系統が、京都駅前、塩小路高倉、洛北高校前、烏丸車庫前、千本北大路、四条大宮、九条大宮
6系統が、京都駅前、七条烏丸、東山七条、高野、烏丸車庫前、四条烏丸、京都駅前
13系統が、高野、洛北高校前、四条河原町
14系統が、百万遍、高野、烏丸車庫前、市電金閣寺、西大路四条
15系統が、京都駅前、塩小路高倉、河原町今出川、烏丸今出川、烏丸車庫前、市電金閣寺、西大路四条
2系統が、京都駅前、塩小路高倉、河原町今出川、銀閣寺道、錦林車庫、天王町、円町、西大路九条
12系統が、四条河原町、河原町今出川、銀閣寺道、錦林車庫前、天王町、円町、西大路七条
22系統が、白梅町、円町、天王町、錦林車庫、銀閣寺道、白梅町、西大路七条
7系統が、九条車庫前、東福寺、祇園、四条大宮、九条大宮、九条車庫前
8系統が、九条車庫前、東福寺、東山七条、西大路七条、西大路九条、九条車庫前
9系統が、京都駅前、塩小路高倉、勧進橋、中書島
17系統が、九条車庫前、西大路九条、西大路七条、七条大宮、四条大宮、祇園
18系統が、河原町二条、塩小路高倉、京都駅前、塩小路高倉、勧進橋、中書島
19系統が、京都駅前、塩小路高倉、勧進橋、稲荷

まとめ

京都市電は、明治に衰退しかけた京都を立て直すために始められた世界でも二番目の水力発電を利用した、日本初に路面電車でした。それが時代の波とともに廃止されてもう四十四年経ちますが、京都の市民にも日本の人々にも思い出の中に残っていて、私も京都市電を何度も利用したことを覚えています。また広島では京都市電の車両が何両も残っていて、今も元気に走っています。時代とともに発生し発展したものも移り変わって衰退し廃止されていくのは、栄枯盛衰で世の常なのですが、ずっと忘れず心に残っていくと言うのは、安心ということでもあり、「恭敬の会」でも目指していることです。それは今世間で始まっている、人が亡くなってお悔やみをせず火葬したお骨を、ただ送って納骨するといいうのは、心にも残らず忘れ去られてしまうこといなってしまうことで、後で後悔のねんが起こることがあるかもしれません。恭敬の会では、僧侶が伺って、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めし、お骨を預かり倶会一処で納骨することで、忘れ去られてしまうことなく、お供養もきちんと行え、安心を得られるのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、安心とともに人々の心の中に残っていきます。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

この記事をシェアする