Blog ブログ

人が集うこと

ブログ

2023.06.23

人が集うこと

人が集うことはとても大事なことで、集ってこれから行く末のことを皆で考えたり、何か良い方策はないかと意見を出し合って良い方策が見つけ出したりすることができます。また集まることで、悪いことを思いついたりすることもあります。「三人寄れば文殊の知恵」という言われていて、1人で思い悩んでいても妙案は思いつかないけれど、三人寄れば何か妙案が思いつくこともるという意味です。動物の世界でも猫が集会をしていたりすることなんかが知られています。宗教の世界においても、集ってお勤めをしたり、話を聞いたりすることによって、一体感が生まれ、今より尚一層深めていきたいという気持ちが湧いてきて、知識を得るのと信仰心が高まって行く元になっていきます。「恭敬の会」では、僧侶がお家にお伺いして、僧侶と家族が集うことによって、今まで縁がなかったことが、深い縁があるという事に気づくことができて、亡くなられた方の供養にもなり、残されたご家族もより良い心持ちになっていけ、人生の糧となれるのではないでしょうか。

コロナウイルス流行によって

三年前、新型コロナウイルスが流行しだして、それによって生活様式が大きな変化をすることになりました。感染拡大を防ぐために外出が禁止されたり、画像のようにパリの凱旋門のあたりでも人影や行き交う車がなくなったりして、人が集まることが制限されたり、集まるのを避けたりするようになりました。集まって共同で作業をしたり、なじ体験を共有する機会が大きく減り、学校も閉鎖されたり、授業や講義もリモートになって学校内で集うことがなくなったり、仕事においても事業所に出勤せずにリモート勤務するといったことが行われるようになっていきました。人が集うことが極端に少なくなっていくのと、これをきっかけにして、集うことをやめてしまったり、して、何かを行うのも最小限の人数の単位で行こなうのが正しいかのようになってしまい、それがコロナウイルス感染症が5類となり、季節性インフルエンザと同じ扱いになっても、元に戻ることはないと言われるようになりました。

何故人は集まるのか

人が集まるのには様々な意味があります。最初のことでは人が集まるのは「ともに遊び、楽しむ」ということがあります。それはゲームやスポーツ、歌や踊りなどのような「集団の遊び」、そして食事を共にしたり、お酒の飲み会、お茶会などのような「共食」があって、それらは集団の遊びや共食は相手と共感を得ることになったり、親睦を深めたり、ストレスの発散になったりするのです。
人が集まるのは、「人は想いに触れたくて集まる」、「人は感動を体験したくて集まる」、「人は刺激を得たくて集まる」、「人は学びたくて集まる」、「人は自分の為に集まる」、「人は心が豊かになりたくて集まる」、「人は信頼できる場所に集まる」、「人はポジティブな気持ちになれる場所に集まる」、「人は美しいものに触れたくて集まる」、「人は良いものに触れたくて集まる」、「人は夢のある場所に集まる」、「人はエネルギーが得られる場所に集る」、「人は自分を信頼してくれる場所に集る」、「人は気分転換が図れる場所に集る」、「人は高揚感が得られる場所に集る」、「人は快適な場所に集る」、「人はクリエイティブな場所に集る」、「人は今を生きようとしているあなたに会いたくて集る」、ということによって集まってきたのです。

何故人は集まるのか 神事

神事は日本の各地で古来から行われてきていて、地域の氏神様に春ならばその年の豊作を祈ったり、秋には収穫を感謝して地域の神社の祭礼で氏子が集まり、祭礼の準備をしてお供えを揃えたり、各家でも家を掃除し、親類の人や仲良しの人たちがきてもらえるように準備し、ご馳走を拵えたりします。また神輿が渡御されたり、山車が地域を引きまわされたりして賑やかになり、それを見物する人が集まったりして、神様に感謝するのと楽しみを共有することが行われてきました。

何故人は集まるのか、仏事

人が集まることでは仏事もあります。仏事は仏様hの信仰の気持ちが高まって、同じような信仰の心を持つ人達が集まって、自分のしんこうが間違ってないかを確かめ、違っていたら修正して、より深い信仰に入っていくために集まる、というものですが、現在仏事で集まるのは、人が亡くなったことで、その弔いのために縁のある人たちが集まって、弔いのための準備を行い、葬送をおこなうことが出発点となり、一周忌、三回忌といった年忌法要に集まることが、一般では大多数ではないかと思われます。きっかけはそのように弔いから始まって、信仰を大切にしていけるようになれば、仏事にとって大事なことではないかと思われます。

まとめ

人は、何か目的を持って集まってきたのですが、コロナウイルス感染症流行をきっかけとして、集うということが面倒、集わなくても良いなら集まりたくない、という風潮になって、地域の集まりや行事、神事、仏事においても、あまりしなくて家族だけ、というようになりました。これでは同じ地域に住んでるだけ、周りは関係ないというようなり、自分中心で利己主義になっていき、自分の都合のみというようになってしまい、全ては自分の都合のみの生活、心となっていき人間の社会全体がよくない方向に向いてしまうおではないでしょうか。そこで、せめて供養において、自分の都合だけで、勝手に散骨したり、お骨を郵パックで送って悪く言えば処分するだけ、というのでなく、恭敬の会が行なっている、僧侶がお家に伺って、礼拝の対象となる「三つ折り本尊」を授与し、丁寧にお勤めをしてお骨を預かり、お家の方は三つ折り本尊を拝むようになって、お骨は本坊蓮通寺において懇ろに供養を行い、お家の方々も安心し、これをきっかけにして周りとの関わりも大事にしていける」ようになることが大切となっていくのです。

恭敬の会の供養、訪問預骨 送骨

この記事をシェアする