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伊勢湾台風

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2022.09.26

伊勢湾台風について

昭和三十四年(西暦千九百五十九)九月二十六日、昭和三十四年台風15号が紀伊半島から東海地方に来襲し、東海地方を中心として全国にわたって甚大な被害をもたらしました。伊勢江湾岸に地域が特に甚大であったことから「伊勢湾台風」と名付けられました。

伊勢湾台風の経過

昭和三十四年(西暦1959)九月二十日、中部太平洋のマーシャル諸島のエニウェットク島付近で、中心気圧1008ヘクトパスカル(当時はミリバール)の熱帯低気圧が発生し西方に数sみ、二十一日にサイパン島の東を北上しながら発達していき、同日の21時にマリアナ諸島の東海上で中心気圧1002ヘクトパスカルの台風15号となりました。それからは再び西寄りに進路を変えて急激に発達し、九月二十二日の午前9時であ996ヘクトパスカルだったのが、午後3時には970ヘクトパスカル、二十三日午前9時には905ヘクトパスカルになり、午後3時にはアメリカ軍の気象観測飛行機で観測された数値では894ヘクトパスカルに発達し、中心付近の最大風速はアメリカ軍の観測によると毎秒90mで、風速25m以上の暴風雨域は半径300kmにも及ぶ超大型のものでした。
その後、ほとんど勢力が衰えることがなく、九月二十五日のお昼頃まで900ヘクトパスカルの強烈な勢力のまま進路を北西から北に変え、二十六日午前9時には潮岬の南南西400kmに達し、その時点での勢力は中心気圧920ヘクトパスカル、最大風速毎秒60m、暴風雨域は東側400km、西側300kmという超大型でした。二十六日午後6時過ぎに、929ヘクトパスカルの勢力で潮岬の西15キロの付近に上陸し、それまでの進行速度が毎時30kmだったのが、上陸後は加速して毎時60kmから70kmで紀伊半島を縦断し、中部山岳地帯を経て二十七日0時過ぎに日本海に抜けた頃には、毎時90kmに達して、二十七日午前9時ごろ秋田県沖で中心あ消滅し、それが青森県沖の日本海上でまた中心が出来てジャンプ現象を起こし、同日の午後9時に北海道の東で温帯低気圧になり、東太平洋上で十月二日に消滅しました。

伊勢湾台風にの概要

人的な被害としては、紀伊半島では和歌山県、奈良県、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、中央アルプスの近くの岐阜県などを中心にして、犠牲者5098人(内訳は死者4697人、行方不明者401人)、負傷者38921人、にものぼって、犠牲者が3000人以上を出した台風として、室戸台風、枕崎台風と合わせて昭和の三大台風に数えられて、その中でも最悪の被害をもたらして、その犠牲者の数は大東亜戦争から後の自然災害では、平成二十三年(西暦2011)の東日本大震災。平成七年(西暦1995)の阪神淡路大震災に次ぐ規模で、台風の災害としては最大の被害です。
それとともに、全国に及んだ経済的な被害は莫大で、GDP比での被害額は阪神淡路大震災の数倍で、大正時代の関東大震災に匹敵するものでした。特に被害が多かったのは名古屋市港区、飛島村、弥富市がひどくて、床上浸水どころか辺り一面水に浸かり、家屋も二階まで浸かってしまった家や、一階は据えて浸かったところばかりで、水人流され亡くなった人もすごく沢山で、材木や流木も流れ、家屋が潰され、地域全体が崩壊してしまったところも沢山で、人的、経済的被害の規模の大きさから、明治維新以降で最大級の自然災害の一つとなりました。
災害対策について定められた法律の「災害対策基本法」はこの伊勢湾台風を教訓として成立したもので、平成二十四年(西暦2013)に気象ちょが運用を始めた「特別警報」は、台風については伊勢湾台風を基準としています。


被害が甚大になった訳

伊勢湾台風の被害が甚大になってしまった訳は、一番の原因としては「高潮」の被害で、台風の勢力が衰えずに、熊野灘から伊勢湾、三河湾においては台風がその地域の西側を北上したことから、とても強い南寄りの暴風が持続して吹くことになり、強い風による吹き寄せと低気圧による吸い上げの効果によって高潮が起こり、満潮時ではなかったのですが名古屋港では観測史上最高の水位を記録して、気象台では2メートル程度の潮位と予想していたのが5メート以上にもなって、当時の堤防が3メートルちょっとだったので、容易に堤防を越えていったのです。それと名古屋市の周辺では急激な工業化で地下水の汲み上げにうおる地盤沈下が激しかったことも被害を拡大させたのです。名古屋市南部を含む干拓地の被害も甚大で、鍋田干拓地では堤防のほとんどが決壊して、住宅地や耕地は全滅、318人の住民のうち133人が犠牲者となったほどです。この高潮で最も沢山の人命が失われたのは、飛島村、名古屋市南区、港区で、これは名古屋港の貯木場から流出した大きな木材の大群が押し寄せて、住宅地を破壊して南区で発生した犠牲者1500人の大半が流木によると考えられます。

まとめ

伊勢湾台風は、私の知り合いも被害を被り、名古屋市港区のお寺の生まれで両親が開業医だった友人は、医院の二階まで水が浸かり、当時一歳にもならない友人を守るために御両親は恐怖の中苦労されたことや、三重県桑名市の大学の恩師のお寺も庫裡や書院が長押まで水に浸かって屋根の上に避難された、という話を聞かせていただいとのと、私の父が、当時は本山東本願寺に勤務していて、慰問のため名古屋に派遣され、名古屋から津島まで普通の時なら車か電車で行くとこりなのに船でしか行けず、
船で向かっていたら、蛇がよってきて、船に登ろうと必死に泳ぐのだけれど、船に乗ってる人たちは、蛇が乗るのは嫌がって、船を全速力で走らせ、寄ってくる蛇を振り切ったというようなことも父から聞かされました。
このような話を聞き、現代史の中の出来事で他人事としか思っていなかったのが、自分の近くでも体験していた人の話を聞いて、他人事とは思えないようになりました。
それとともに、何事も他人事というのはあり得なく、自分のこととして捉えなくては
ならない、それが災害が起こった時に、自分達はどうしたら良いのか、自分は人のために何をすることが出来るのかがわかることだと学びました。これは仏事にも言えることで、いま世間では簡単に楽に仏事も済ませてしまおう、という流れになっていますが、それは今までのようなお寺とのつながりが煩わしい、経済的な負担が大きい、自分の考えることにそぐわないということからかと思うのですが、それはお寺の側にも問題があるのではないかと考えられます。そこで「恭敬の会」は、煩わしいお付き合いということもなく、経済的な負担も少なく、しかし懇ろな供養はできるように考えて、僧侶がお伺いして礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めしてから、お骨を預かり納骨することにしたのです。
恭敬の会の送骨 訪問預骨、永代経、永代供養は今の人々に合致しています。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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