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盂蘭盆会
供養について 2
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2022.07.04
供養について 2
聖道門と浄土門とは供養の内容が異なって来ます。
聖道門で主に行われるのに「追善供養かっこがあります。追善供養は簡単に申せば亡き人の成仏を祈ることで、亡き人のために功徳を積んで善根を追加して祈るもので、御詠歌を歌う前に「願い奉る追善供養かっこと申します。それでもいくら追善供養を行ったとしても容易に仏になれるものではありません。たまに丁寧に供養すれば成仏できると申されることがありますが、それは自分の立場を外において様々なことを批判する、まさに「外道」と言われる考え方で、仏教の言葉を用いながらも、その思想は仏教とはかけ離れたものだと言えます。
仏教の根本である「三帰依文」に「この身、今生において度(救われる)せずんば、さらにいずれの生においてこの身を度せん」と示されているように、いかに今生きている時に仏法に出会うことが大切かと言うことがうかがえます。
もう一つの「讃嘆供養」ですが、これは主に浄土門の宗派においてなされる供養です。
讃嘆供養とは、文字通り阿弥陀如来の恩徳を讃楊(ほめる)歌嘆(たたえる)することで、阿弥陀如来は我ら凡夫のために念仏往生の願いを建て「本願を信じ念仏申さば仏になる」と約束してくだっさったのです。だからひたすら本願のおいわれを聞き、阿弥陀如来の御催促(他力回向)によって、ひとたびお念仏を申す身となれせていただいたなら、摂取不捨(摂めとって絶対に捨てない)の御利益によって、現生(今を生きているとき)に正定聚(往生が定まった身で菩薩と同じ)の位に着き、そして現生での命が尽きた時、瞬時に浄土に参り悟りを開いて仏となるのです。
名の浄土門においては聖道門のような自力の修行でなく、阿弥陀如来をたのむ一念で往生が定まり、ただその阿弥陀如来の恩徳をほめたたえ、御恩に報いる讃嘆供養が勤めとなるのです。
聖道門における追善供養は自力修行の人のためですから、浄土門の教えをいただく我々には必要としません。ランナーはゴールをくぐれば、走る必要がないのと\同じで「来生の開覚」が約束され、すでに浄土に往生され仏となられた方には仏になるための修行は必要がないのです。先に参られた方々と共に阿弥陀如来の恩徳を讃えりののが浄土門の供養です。
年忌法要にしても、月忌参りにしても、亡き人のためにではなく、亡き人と共に阿弥陀如来の御恩に報いる報恩行であるということに留意しなくてはならないのであり、
蓮如上人は御文に「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは」と示してられるように、一生をかけて勤めるべきことです。
聖道門で主に行われるのに「追善供養かっこがあります。追善供養は簡単に申せば亡き人の成仏を祈ることで、亡き人のために功徳を積んで善根を追加して祈るもので、御詠歌を歌う前に「願い奉る追善供養かっこと申します。それでもいくら追善供養を行ったとしても容易に仏になれるものではありません。たまに丁寧に供養すれば成仏できると申されることがありますが、それは自分の立場を外において様々なことを批判する、まさに「外道」と言われる考え方で、仏教の言葉を用いながらも、その思想は仏教とはかけ離れたものだと言えます。
仏教の根本である「三帰依文」に「この身、今生において度(救われる)せずんば、さらにいずれの生においてこの身を度せん」と示されているように、いかに今生きている時に仏法に出会うことが大切かと言うことがうかがえます。
もう一つの「讃嘆供養」ですが、これは主に浄土門の宗派においてなされる供養です。
讃嘆供養とは、文字通り阿弥陀如来の恩徳を讃楊(ほめる)歌嘆(たたえる)することで、阿弥陀如来は我ら凡夫のために念仏往生の願いを建て「本願を信じ念仏申さば仏になる」と約束してくだっさったのです。だからひたすら本願のおいわれを聞き、阿弥陀如来の御催促(他力回向)によって、ひとたびお念仏を申す身となれせていただいたなら、摂取不捨(摂めとって絶対に捨てない)の御利益によって、現生(今を生きているとき)に正定聚(往生が定まった身で菩薩と同じ)の位に着き、そして現生での命が尽きた時、瞬時に浄土に参り悟りを開いて仏となるのです。
名の浄土門においては聖道門のような自力の修行でなく、阿弥陀如来をたのむ一念で往生が定まり、ただその阿弥陀如来の恩徳をほめたたえ、御恩に報いる讃嘆供養が勤めとなるのです。
聖道門における追善供養は自力修行の人のためですから、浄土門の教えをいただく我々には必要としません。ランナーはゴールをくぐれば、走る必要がないのと\同じで「来生の開覚」が約束され、すでに浄土に往生され仏となられた方には仏になるための修行は必要がないのです。先に参られた方々と共に阿弥陀如来の恩徳を讃えりののが浄土門の供養です。
年忌法要にしても、月忌参りにしても、亡き人のためにではなく、亡き人と共に阿弥陀如来の御恩に報いる報恩行であるということに留意しなくてはならないのであり、
蓮如上人は御文に「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは」と示してられるように、一生をかけて勤めるべきことです。