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俳句

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2022.08.19

俳句の日

八月十九日は 俳句の日です。八がは、19がいくの語呂合わせです。
俳句は季語(季節の言葉)と五、七、五の数の音を主とした定型を基本とする日本の定型詩です。
江戸時代には十七文字とも称されていて、現代では十七音とも表記されています。
和歌や連歌の発句(はっくと言い、和歌では最初の句で、第一句を言います。連歌では連句の第一句です)と同じように、俳句は発生した時点で季節の言葉がないものもあります。

松尾芭蕉 伊賀時代

俳句といえば松尾芭蕉です。
松尾芭蕉は寛永二十一年(西暦1644)に、伊賀国阿拝郡柘植(現在の三重県伊賀市)で、土豪であった松尾与左衛門の次男として生まれ、幼名を金作、通称を甚七郎とも甚四郎と呼ばれ、名前は忠右衛門、後に宗房と言いました。
家は貧しくて、寛文二年(西暦1662)に上野の侍大将、藤堂新七郎良清の嗣子の主計良忠に仕えるようになり、その小者として務めていたようでした。主人の義忠とともに京都の北村季吟に師事して、俳諧の道に入って寛文二年の年末に詠んだ句「春や来し 年や行けん 小晦日」という最初の句が残っています。
寛文四年(西暦1664)に、松江重頼撰の『佐夜中山集』に、松永貞徳によって提唱された貞門派風のニ句が「松尾宗房」の名前で初入選しました。
寛文六年、主人の良忠が亡くなり、その遺髪を高野山に納める一団に加わって仕官を退いて、翌年の寛文七年に刊行された『続山井』には、「伊賀上野の人」と紹介せれているように、それからも上野に住して寛文十二年(西暦1672)には上の天満宮に『貝おほい』という処女作を宗房の俳号で奉納しています。


松尾芭蕉 江戸

延宝三年(西暦1675)江戸に向かい、日本橋付近の貸家に住むようになり、西山宗因を迎えて開催された興行の九吟百韻に加わって、この時唐「桃青」の俳号を用いるようになりました。
延宝六年(西暦1678)、現在の文京区に済んで、俳句の宗匠となり、門人を抱えるようになって、『桃青三百韻』が刊行されています。
、延宝八年(西暦1680)に深川に住まいを移し、静寂で孤独な生活を通して克服しようとする木本が込められた句になって、「侘びてすめ 月侘び斎が 奈良茶哥」というような詫びへの共感が詠まれている句を残していt。この時唐「芭蕉」という俳号を用いるようになり、「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」と詠んでいます。しかし天和二年(西暦1682)年末の天和の大火(八百屋お七の火事)で焼け出され、甲斐谷村藩に招かれ流寓し、翌年には江戸に戻ったのですが、隠棲しながら住処を持つことの儚さを知ったようです。
貞享元年(西暦1684)、芭蕉は『野晒し紀行』の旅に出て、西に向かって伊賀、大和、吉野、山城、美濃、尾張、甲斐を巡り、貞享三年(西暦1686)には江戸に戻り、「古池や 蛙飛び込む 水の音」という有名な句を読みました。
翌年には鹿島神宮を詣でる旅に出て、その後に『笈の小文』の旅にでて西に向かい鳴海、熱田、伊良湖岬、名古屋を経て伊賀上野にひり、翌年には伊勢神宮を参拝し、吉野、大和、紀伊と巡って、大坂、須磨、明石を巡り京都に入ったのです。京都から江戸えの復路は『更級紀行』としてまとめられました。

おくのほそ道

元禄二年(西暦1689)、芭蕉は弟子の曾良を伴って『おくのほそ道』の旅に出発しました。下野、陸奥、出羽、越後、加賀、越前、などを巡る旅は、西行や能因らに旧跡を辿る目的もあって、たくさんの名句が詠まれています。
宮城の松島では「松島や ああ松島や 松島や」、これは松島の景色があまりにも素晴らしく、言葉がでなかったことを表す句で、誰もが感動した時に使ったrします。
岩手の平泉では「夏草や 兵どもが 夢の跡」、この句は、源平の争いの最後に、源義経が兄頼朝の軍勢にせめられ自刃し、義経を匿った奥州藤原氏が滅ぼされたことにちなんだ句です。
山形の立石寺では「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」この句は、すごい山寺の立石寺で、千段もの石段を登り素晴らしい静かな景観の中、普段をうるさいと思える夏の蝉が、あまりの静かさ岩山の岩にしみいってし舞うような静かさの感動です。 
山形の最上川では「五月雨を あつめて早し 最上川」この句は、最初はあつめて涼し大たのが、あつめて早し にあらためていて、梅雨の雨で増水して川お流れが早くなっている様子ですが、最上川の姿を思い浮かべることができます。 

色の浜

奥州を巡り 越前敦賀に着いた芭蕉は船で色が浜に行き、「寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋」と詠んで、寂しさにも重量感があり、色の浜の秋の只中にいて、その風景の圧倒的に寂寥感に、以前に須磨、明石で経験した暮秋の侘しさが色褪せて見えるようだと感激した句です。
こお敦賀の後、深坂の山を新道野越えで越して、近江塩津により、夜に行われた相撲興業を見て、大垣に向かい、奥の細道の旅を終えたのです。
その後も、江戸から伊賀上野に向かったりしていますが、最後に門人の諍いを治めるために大阪に赴き、病にかかり「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」の句が最後の俳諧となり五十歳の生涯を閉じたのでした。
遺骸は、芭蕉の遺言によって源の義仲g最後を迎えた大津の粟津が原も義仲寺に葬られました。

まとめ

松尾芭蕉は、日本を代表する俳人で、素晴らしい俳句を残してくださり、日本の文化にも日本人の心にも多大な功績を残してくださったのですが、蓮通寺のある塩津(長浜市西浅井町)にも奥の細道の最後っとなる大垣の前に立ち寄っておられ、「つきのみか 雨にすもうも なかりけり」という句が残っていて、塩津から敦賀を結ぶ塩津海道の峠の蕎麦屋さんの西村家には『おくのほそ道』の原本も残っていて、とても親しみを感じる方なのです。
文化を次世代に継承していくのも、先祖を大事にして弔いを行うことも、同じように大切なことで、その一翼を「恭敬の会」はになっているのです。
恭敬の会の送骨 訪問預骨 永代経、永代供養は皆さんと松雄芭蕉とも縁のあるところで、安らかに永代に亘り安心していけるのです。

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