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八月四日

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2022.08.04

八月四日は はしの日

八月四日は、八と四を語呂合わせして、「はしの日」といいう記念日なんだそうです。その はし は渡る「橋」でもありたべる時使う「箸」でもあるようです。
橋は人や車屋、電車が渡る橋で、川や海や渓谷を遠回りしなくても渡ることができる便利社会生活には欠かせないものです。
橋は日本や中国、東南アジアの国々を中心として、食物を食べる時に用いる生活に欠かせない道具です。

蔓橋

四国徳島県の蔓橋は、「祖谷おかずら橋」として知られ、日本三代奇橋の一つです。祖谷渓谷のの秘境の断崖にあり、この橋がないとすごく遠回りをして渡らないといけなくて、渓谷の人たちの暮らしには欠かせない橋でした。
重さ5トンにも及ぶシクラチカズラで作られていて、今でも三年ごとに架け替えられます。人しか通れ、一歩踏み出すごとに軋んで揺れるので、怖がりには向きません。

世田の唐橋

琵琶湖から流れ出す瀬田川に架けられている橋で、日本に歴史上最も有名な橋の一つです。瀬田橋、勢多橋、勢多唐橋とも表記され、東海道、東山道から京に向かうには、琵琶湖っを船で渡るか、瀬田川を越えるしかなく、「唐橋を制すものは天下を制す」と言われ、古代からの要衝で、京都を守るための最重要地点でもありました。最初にこの瀬田の唐橋を舞台として戦われ史実に残っているのは「壬申の乱」で、皇位継承をめぐって大友皇子と、大海人皇子が戦った戦で、瀬田唐橋はその最後で最大の決戦場となり、この橋を制した大海人皇子が勝利して天武天皇となられました。その次は寿永の乱で、源平の騒乱の後半、源義仲が、洛南の宇治で義経に敗れ、瀬田の唐橋を守っっていた義仲の臣の今井兼平で、義仲は兼平と合流したのだが、範頼の大軍に敗れて討死してしまった戦いです。
次は承久の乱で、後鳥羽上皇が鎌倉幕府軍と瀬田の唐橋で対峙して、鎌倉幕府軍が勝利さたのです。などの有名な戦いがこの得たの唐橋を舞台に繰り広げられたのからわかるように、東海道、東山道の要地で、明治までは瀬田川にはこの橋しかなく、交通にも大変重要な橋でした。

三条大橋

京都の三条大橋は、東海道、北陸道、の西の起点で、一番最初に三条大橋はが架けられたのは室町時代と言われていて、安土桃山時代の天正十七年(西暦1589)小田原の北条氏征伐が決まった直後に、豊臣秀吉が奉行の増田長盛に三条大橋の修復、架橋を命じ、今でも擬宝珠に銘文が残っています。
また、三条大橋のすぐ近くの三条河原では、石川五右衛門の釜茹の刑、豊臣秀次の妻子が処刑され、石田三成も斬首の後三条河原で晒し首となり、新撰組の近藤勇も三条河原で晒し首になったということもあります。

錦帯橋

錦帯橋は、山口県岩国の錦川に架けられた五連のアーチ橋で、全長193、3メートルで、主要構造物は継手、仕口といった組み木の技術で組み上げられ、釘は一本も使われていません。石積みの橋脚に五連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、延宝元年(西暦1673)岩国藩主の吉川広嘉が岩国城と城下町をつなぐ為に、以前から何回も橋をかけ流されていたのを、明からきて帰化した僧の独立性易から、中国の杭州の西湖には島づたいに架けられた六連アーチの橋があることを伝られ、これをもとに橋台を石垣で強固にして洪水に耐えるようにしてかけられ、翌年壊れたものの、改良強化して、定期的に架け替えられ昭和までその姿を保ち、昭和二十五年のキジア台風で流されたが、復興され今も優美な姿を保っています。

瀬戸大橋

昭和六十三年(西暦1988)開通した、岡山県の倉敷と、香川県坂出市を結ぶ10の橋の総称で、鉄道と併用の橋です。
それまでは宇野と高松を結ぶ「宇高連絡船」がこの間の主要ルートで、海が荒れると欠航し、四国の人々は本州と地続きんいんるのは悲願でした。明治時代からここに橋を架けることは提唱されていましたが、ずっと実現いませんでした。昭和三十年(西暦1955)修学旅行の小学生を多数乗せていて紫雲丸事故が起きて、橋をかけるかトンネルを掘るかというはなしが、いよいよ活発になり、昭和三十四年(西暦1959)建設省が本四連絡橋のルート調査を開始し、昭和五十二年(西暦1977)政府が道路鉄道併用橋として内定し、昭和五十三年(西暦1978)起工、昭和六十三年(西暦1988)開通しみあt。これによって四国と地本州が安全に便利に結ばれることになりました。

明石海峡大橋

明石海峡大橋は、神戸市垂水区と淡路市岩屋を結ぶ、全長3911メートル、主塔間1991メートル、主塔300メートルの世界最長の吊り橋です。淡路市とと神戸垂水の間には明石海峡があり海流も早く難所でした、それが本四架橋構想に淡路鳴門ルートになり、昭和六十年(西暦1985)起工し、途中平成七年(西暦1995)阪神淡路大震災が起こり、地盤が1メートルずれて、全長が1メートル伸びることになったが、平成10年(西暦1998)無事完工し開通しました、これによって本州と四国の高速道路も円理が良くなり、徳島県と近畿の交流が前にも増して盛んになりました。

箸の日

八月四日は、橋の日でもあるとともに「箸」に日でもあるのです。
橋と同じように箸も語呂合わせですが、毎日の食事には必ず使うもので、大切に深紅てはなりません。この日は東京の日枝神社で、神前に長さ1メートルの大きな橋を供え、古い橋を焼いて供養する「箸供養際」が行われます。愛知県豊橋のお寺でも境内にある「箸塚」で箸供養をおこなっていて、若狭塗箸で有名な小浜では「箸のふるさとと館Wakasa」で、まつりが行われ、感謝を込めて不要になった古い箸を供養します。

まとめ

箸の日、橋の日は語呂合わせからできた記念日ですが、我々の生活に欠かせない、食事の時に使う「箸」は食事には絶対必要、移動の時に渡る「橋」は、それがかかってなかったっら不便で、生活にはなくてはならず、道具やインフラも自分に多大な貢献をしてくれていると、それらにも感謝の念を持つことが大事なことで、箸供養は橋供養でもあると思います。その感謝の念を一番身近で表すのが手を合わせることで、手を合わせる最初が亡くなった時ではないでしょうか。「恭敬の会」では、悲しみから始まり手を合わせるお手伝いなのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、その入り口です。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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