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兼正寺

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2022.10.13

兼正寺

兼正寺は、札幌市手稲区にある浄土真宗にお寺で、現在の住職の三代前に住職が、明治時代に御門徒と共に北陸から北海道に渡られ、開拓されている御門徒の心の拠り所として不況につとめられ、報土山兼正寺という寺号にされ、熱心な御門徒と住職が一丸となって浄土真宗の教えを喜んでおられ、私と現住とは、同じ師匠に声明をお伝えいただいた同門の間柄で、師匠がずっと報恩講に参勤されていたのですが、師匠が遷化されてからは私が参勤するようになり、それ以来毎年一緒に無二の勤行を勤めさせていただいているのです。

兼正寺の仏花

兼正寺の住職は、大谷大学在学中から東本願寺の仏花を司る「花小」一門の十四代目の後見人であった斎藤先生から仏花について伝授され、4回生の時に突如お父さんの先代住職が亡くなられ、卒業と同時に住職になられ、それからも頻繁に京都の師匠に元に通われて、東本願寺の仏花を正しく残して次の世代に伝えていこうと努力されていています。仏花のためならどこでも自分で出向いて花材を集め、それを自分で運び、丁寧に下拵えをして手間暇をかけてセオリーに沿った仏花を立てられます。

仏花について

仏花とは、仏教荘厳の花飾りであり、仏前の供花のことを言います。その代表的なものに蓮の花、いわゆる蓮華の供花があります。これは密教の曼荼羅に描かれている周囲の蓮華がまさにそれであり、供花の中でも最も重要な位置を占めています。仏教が大陸より伝承し、各種の仏具も共に伝わり、供花の風習も我が国に導入されたと言われますが、当初は主に造花を花瓶(かひん)にたてたようです。現在も他宗派にみられる「常花」のように、蓮華を金・銀・錫等の打ち物によって作ったものが使われたと想像されます。生花を供花に使用したのは、おそらく平安時代以降のことであり、仏教伝来以前の習俗や日本人本来の花に対する宗教的感性が、仏教の供花の風習とうまく習合することによって、インド・中国にはみられない独自のものとしての仏前供花を生み出したのでありましょう。時代が下って中世になると、仏前供花の流れは、やがて「花道」を生み出すことになりますが、その中でも初期の「たて花」から「立花」へと進み、逆に供花にそれを取り入れるというような同時進行により、やがて供花の方でも形式美を完成させ、それを保ち続けたのであります。本願寺では立花を供花の本流として受け止め、親鸞聖人の遺徳を偲び、蓮如上人の遺風を伝持する人々の手により、大きく開花されてきました。立花が後代の衰微にもかかわらず、今日まで連綿と伝承し続けたことは特筆に値します。
本願寺の仏花は、池坊より発達史、眼根の様式に発達したもので、「立花」の発達史と見比べてみますと、本願寺の仏花の形式が十五世紀の中期から後期にかけて徐々に整えられたと思われることや、その時代の背景、流行などから考えて、池坊流と非常に深いつながりがあるものと想像できます。

東本願寺の仏花

本願寺では平生の時は、仏花は本願寺住職が建てられていて、蓮如上人の平生の言行を伝える蓮如上人の門弟の空善の日記の『空善日記』には、延徳元年(西暦1489)の十一月ん十八日の報恩講御満座には「御荘厳は五具足 真にはあひおひの松 菊 みやましきび下草派水仙花 いずれも上様の御たて候」と記されていて、蓮如上人が自らおたてになったのです。本願寺が東西に分派され、東本願寺においては重要な法要では池坊が立花を行ったのですが、両度の命日やその他の法要では蓮如上人の伝統を受け継ぎ、歴代の上人が花を立てられ、教如上人、その次の宣如承認も花を立てられたのですが、東本願寺の御堂が巨大化し組織が整備されていくと、やがて立花はそれを専門にする人々によって立てられるようになり、特定の御堂衆によって立てられるようになっていきました。明暦になると新しい御影堂が落成し二重屋根の南北三十九間(約七十一メートル)にも及ぶ大規模なもので、それに合わせて仏具も花瓶も大きくなって、この時の上棟式の前卓の立花は、北は松一色・南は竹の真で特別に池坊が担当して、この両瓶の立花形式、つまり左右非対称の松一色と竹真満州鉄道、特別な慶事用として、現在でも伝えれています。時代が下がると大花の立花は次第に伏見の法中秋の手に移っていき、さらに時代が下がると親鸞聖人五百回忌御遠忌の頃から、「花役」という職名が付けられて、それ以降は実際に立花を行う人は歴代の当主が小兵衛を名乗る「花小」一門に移っていきました。
立花は、その形・大きさ・内容について池坊流のそれとは胴の部分が大きく相違していて、東本願寺独自の発達を見たと思われ、御堂の大きさとも関連していると考えられます。

まとめ

東本願寺の仏花は、蓮如上人、教如上人、宣如上人、その後の御歴代をはじめとして、その時代の立花巧者といわれた人々や、立花を風流にすることのできた人々、死して「花小」一門をはじめとして自らその役を望み奉った人々によって、それぞれ池坊流からその様式を取り入れて、単に世襲や伝統だけにとらわれずに、仏祖崇敬の大きな願いをいただきながら、連綿と受け継がれて、東本願寺独自の仏花としての立花を発達を遂げて今日に至っているのです。これを兼正寺の住職はその兄弟子の寺本師とともに受け継がれて、次世代に伝えるべく努力されていて、東本願寺の儀式作法を伝えられた私と共に東本願寺の荘厳を守り伝え、人々が仏花、儀式の素晴らしさを感じ感動し喜んで仏様を敬っていただけるよう活動をおこなっています。「恭敬の会」は、それの一環として、これまでより広い人々に負担が少なく、煩わしいことがないようにして、敬いの心を持っていただけるようにするため、僧侶がお伺いし、礼拝の対象の三つ折り本尊を授与して、その前で丁寧に綺麗にお勤めをし、その後にお骨を預かって納骨して永代にわたって供養を行うようにしました。教化の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は安心父んおに敬いの心が育まれます。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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