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北海道について

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2022.07.23

北海道に来る理由

昨日の夜、中部空港から飛行機で移動して北海道にきました。
お仲間のお寺の報恩講(浄土真宗では一年にうち一番大事な法要です)へ参勤するためにです。連日32度や33度しかも蒸し暑いところからくると、湿度が少なくて凄く過ごしやすく、夏の報恩講といいうと汗だくになりますが北海道では、夏でもさほど暑くない(五年程前に一度だけ札幌でも蒸し暑くて汗だくになったことがありましたが)おで、一生懸命声を張り上げてお勤めしても大丈夫です。

北海道とは

北海道はもとは「蝦夷地」と言って、アイヌの人達が広く沢山暮らしておられたのです。伊能忠敬(延享二年生まれ、文化十五年没)が寛政十二年(西暦1800年)から文化十三年(西暦1816年)にかけて17年を要して、幕府の命によって日本各地を測量し、『大日本沿海興地全図』を完成させたのですが、それにも「蝦夷地」と載せられています。その大地図には樺太や千島列島は描かれ低m線が、樺太や千島列島も蝦夷地です。

北海道の歴史

北海道は、上でも述べましたが元は「蝦夷地」(えぞち)と申しました。
画像の地図は西暦1853年に中島翠堂によって描かれた『地球萬國方圖』で、蝦夷地も描かれていて、千島列島や樺太も描かれています。蝦夷は本来は樺太や血島列島も含まれていて、今のように北海道だけではなかったにです。アイヌに人達が広く沢山暮らしておられ、それは北海道の地名はアイヌの言葉にちなんだものが沢山あることからもわかります。
江戸時代までは北の境の認識が薄かったようで、多分寒冷地ということもあり、自然も厳しいから、人があまり住んでいない(ロシアがあるとは考えていない、と勝手に推測してしまいますが)と思われていたのではないでしょうか。

江戸時代後期になって

安土桃山時代、豊臣秀吉によって渡島半島南部を領していた蠣崎氏が蝦夷地の支配権、交易権を許し、江戸幕府を開いた徳川家康からも、それを公認されました。その後に蠣崎氏は松前氏と改名し大名に列せられ、松前藩となり、北海道の太平洋側と千島列島を東蝦夷と呼び、北海道日本海側と樺太を西蝦夷と呼び、東西の蝦夷地の物産を大坂(明治に大阪となった)や江戸に運んだのです。
日本海を回って大坂に物産を運ぶ北前船と呼ばれる船で、蝦夷地の昆布やニシンといったものを運んで、それで今でも大阪では昆布が重宝されてます。
それが、寛政から文化になると、ロシアが南下政策を推し進めてきて、幕府はそれに警戒するようになっていき、寛政十一年(西暦1799)n、東蝦夷地を、文化四年(西暦1807)には西蝦夷地を天領(幕府の領地)とし、文化六年には樺太島も呼称を北蝦夷地と正式に定めた上で、奥州(東北地方)の諸藩に出兵を命じ、その後緊張が解けたと思われたので文政四年(西暦1821)に大半の蝦夷地を松前藩い返却したが、安政二年(西暦1855)には諸外国との緊張が高まり、渡島半島の一部以外を再び天領としました。

明治維新になり

幕末になり、ペリー来航でそれまでの鎖国から、オランダ中国以外の国とも通商し国交を結ぶこととなり、蝦夷地でも函館が開港することになりました。幕府は蝦夷地の押さえとして函館に五稜郭を築き防備を固めることにしました。その後新政府軍が東に攻めていき江戸城が無血開城され、徳川宗家は駿河、遠江二ヶ国70万石に減封となり、たくさんの幕臣が路頭に迷う心配が出てきたので、幕府の海軍服総裁の榎本武楊らは蝦夷地に移住させて開拓しようと画策したのです。ところが新政府から幕府艦隊を引き渡せといいう命令が出たんですが、榎本らはそれには全面的には応じず、一部だけを引き渡し、残りの艦隊を率いて幕臣2000名と仙台に向かい、途中で4000名に膨れ上がって仙台から函館に渡り、新政府に恭順した松前藩を攻めて一体を占拠し、蝦夷地を平定し函館政権を樹立したのです。しかし新政府からの軍が攻めてきて函館瀬演奏となり、榎本らの旧幕府軍は敗退したにです。それによって戊辰戦争の前あいが終結して、蝦夷地は北海道と解明されました。

北海道開拓

北海道開拓は「開拓使」が置かれ、明治維新後の国力増強に活用するため、鉱山開発、道路港湾の開発を進めようとしたて函館から始まったのですが、函館ではあまりに南に偏っているので、札幌に開拓使を移して官営工場の建設、札幌農学校の設置を行いクラーク博士を招いて(ボーイズ、ビ、アンビシャスで有名)農学校を発展させようとしました。そこで移民を進めることとして、その移民によって開拓を進めることにしたのです。

東本願寺の北海道開拓

北海道開拓のために、明治政府は徳川幕府と密接な関係であった東本願寺に北海道開拓の命が下り、まず函館と札幌を結ぶ道路の開設を行うことになったのです。そこで東本願寺の新門跡である若干十八歳の現如上人が自ら赴くこととなり、道々で寄進を募り、また北陸地方の門とや末寺の二男三男を引き連れて北海道に渡り、尾去別から中山峠を越えて札幌までの道路を大変な苦労をして開き(現在でも本願寺街道というなが残っています)、土地の開拓に寄与して北海道開拓に貢献したのです。大変な苦労でしたが、それによって門徒も沢山となり、その門徒さんたちが心の拠り所とするお寺も増えていったのです。

門徒さんたちの心の拠り所として

開拓に励んだ門徒さんたちの心の拠り所として、北海道各地に東本願寺のお寺が建立されていき、開拓の苦労を偲び開拓された先祖を敬って感謝する場となっているのです。

まとめ

先祖を敬って感謝することにより、北海道は発展し札幌も日本でも有数の都会に成長しました。北海道に限らず先祖を敬い感謝する気持ちを表すことが大切で、そのお手伝いをするのが恭敬の会の 送骨 訪問預骨 永代経、永代供養なのです。

恭敬の会の 送骨 訪問預骨

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