Blog ブログ

因果について

ブログ

2022.07.16

因果って

「因果」って言葉を、耳にしたことがあるでしょうし、使うことがあると思います。
何かを行なっていて、上手くいかなかった時に「そんな因果な」と言ったり、人を説得して言い含める時に「因果を含める」と言ったり、一番有名なのは「因果応報」というような使い方です。
順調に進展していたのに途中で止まってしまったり、失敗したりして「そんな因果な」と言って嘆く、また、人に任務を与える際に役目を伝え言い含めるのに使う、何か起こった時に、良いことをしておかなかったら、悪い結果が返ってくる、というということです。 

因果の意味は

「縁起」でも少し触れましたが、「因果」も、仏教の一番大切な根本原理で、Wikipediaには仏教用語として用いられる場合は、などと記されてあるが、そもそもが仏教から起こった言葉であるので、その言い方は極めて不適当だといえます。
「因果」とは、物事の始まりの「原因」と、それによってもたらされた「結果」のことを示していて、諸行無常、所法無我、一切行苦、涅槃寂静の四法印をを総合した「縁起」で、縁が因で全ての現象は原因である種が起こり、結果である果が得られるので、全てのことは一定でなく、全てのものは我でない、すなはち実体がない、一切のことは苦しみになっていき、苦のない理想の世界である涅槃の目指すという仏教の流れを踏まえた上で、仏教の理想としての悟りに至るための原因(修道法)を意味して、広く解釈すれば、あらゆる現象(存在)の原因のことを「因」は表す。
「どのようにあるべきか」という社会、人生現象の動きとして、原因結果の状態を正しく知るとともに、その因果の道理に従って仏教の理想としての悟りに到達するには「どのようにあるべきか」という理想実現の方法を正しく知り、それに従って正しい実践をなすべきこととを解くのです。
したがって「因」とは、正しい因果関係、すなはち合理的な真理を意味するのであり、因の本質は普遍妥当的な真理や合理性にあるので、法が真如や真理と言われるのはそのためで、仏教の法には不合理な迷信が含まれないのであり、その法をただしく実践して果を得るのです。

因果の意味を知って

仏の教えの理想である、悟りに向けて正しい種(原因)を起こし、正しい行い(修行)を行い、煩悩を滅することができたなら、悟り(結果)が得られるのでありますが、人間は一部の人は実践できるかもしれないが、全ての人々が正しい菩提心を起こし、正しい修行(悪いことをせず、悪いことを思わず、一心不乱に煩悩を滅する行い)をして理想である悟り(結果)を得られることはできないのであり、修行を頑張って実践できる一部の人々も、生きている限り煩悩から離れることは無理なのです。
そこで、阿弥陀如来が仏になる前の位の菩薩から、まさに仏になられる時に、本願という四十八の願いを起こされ、それが成就することで仏になられたことで、我々人間は難しい苦しい修行も行わないのに、たとえ一回だけでも念仏を称えたなら、現世での命が尽きた時瞬時にして極楽往生させてもらえ、悟りを得ることができるのです。
それが正しい「因果」といえます。

御念仏の教えは 

正しい「因果」であって、実践しやすく誰にでも簡単に行えるものです。しかし人間は縁起でもわかるように、心も体も一定でなく常に変化し老いて死に向かっていきます。それで正しい因果である念仏を与えられていても、惑わされて疑いの気持ちが起こるのです。その惑わされて起こった疑いの心と、結果をすぐに求める、他と比較したがるという「煩悩」からくる迷いの心によって、せっかくの正しい実践法を知って少し行いかけても、道を逸れてしまいカルトに走ってしまったり、自分だけの理屈をつけ勝手な解釈をして、人に騙されたり、騙したり、迷惑をかけたり、かけられたり、人を傷つけたり殺めたりの道に進んでしまい、精神的に弱っている時に悪い霊魂がついているとか、お祓いして除霊しなくては祟られる、呪われるのから逃れるために、多額の寄進を強要されてしてしまったり、高額なものを買わされたりして家庭を崩壊させてしまい、社会生活ができなくなるというということが起こってしまい、後悔先に立たずといく結果になってしまうのではないでしょうか。

まとめ

せっかくの正しい因果の実践法である、お念仏の教えを知っているのですから、他のことらに惑わされ、悩み、迷野道に進んでしまうのでなく、素直に御念仏を実践していけば良いのです。そのためには自分を自覚し先祖を大切に思い、周囲(自分の住んでる環境や社会)を大事にして、全てに感謝の気持ちを起こしていかねばなりません。その手始めが供養することであり、恭敬の会の納骨、送骨、訪問預骨、永代経、永代供養であり、自分だけの都合・勝手な解釈で行うよなことではありませんし、自分自身も安心が得られ、願い事をするための念仏でなく感謝の御念仏ができるようになって、往生浄土できるのです。

恭敬の会

恭敬の会の送骨 訪問預骨

この記事をシェアする