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天国と極楽浄土

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2022.07.24

天国と極楽浄土って

亡くなって仏教のお葬式をしている際に、「天国から見守ってください」とか「天国に旅だっっっていきました」とかの言葉を耳にします。
死後の世界のことを指していて、極楽浄土も天国も同じようなことだと思われているのだと考えられます。そんなに深い思いをもって使っておられるのではにでしょうが、仏教では天国と極楽浄土では凄く違いがあるのです。

キリスト教での天国

キリスト教では、天国はこの世で命が終わった時にいける国として、神様や天使がいて清浄とされる雲の上の天井の理想の世界、神様の王国のことで、神が救いのわざを成し遂げるために人間に対して示す特別な意思、またはそれによって結ばれた神との関係である契約によって信者となり、生きてきた者が、命が終わった時、生前の行為によって地獄に落ちるか、天国に行くかの審判が下り、善意ことをしてきた人は天国に行ける、悪いことをしてきた人は地獄に落ちる、神を裏切ったり欺いた人は地獄に落ちるとされています。

仏教でに天国

仏教での天国は、「六道輪廻」(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の中の一つで、天井んことを天国と言い、楽しみの世界で人間の五十年が天国の一日一夜とされて、楽しい時間を長く過ごせるのです。しかしもっと長いのは等活地獄の一日一夜h天国の五十年なのです。

六道輪廻

六道輪廻の地獄は、生前の行いにより死後において送られる苦しみの境地で、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大小熱地獄、無間地獄の八つを八大地獄と言って考えられないくらいの長い間の期間苦しまなくてはならないのであって、六道の中でも最下層に位置します。
次に餓鬼道は、食べ物を瑣末にしたり、hとに施さなかったりしたものが落ちるところで、お釈迦様のお弟子である目連尊者のお母さんが、餓鬼道に落ちてしまわれたのを目連尊者が悲しまれ、食べ物を届けられたのですが、口に入れるところで炎となってしまい、食べることができず、そのことをお釈迦様に相談され、雨期の時期の安居に目連尊者は托鉢をされ、全てのお弟子方に水がゆを施され、それによって全てのお弟子方が、それぞれのできることをおこなわれ、木蓮尊者のお母さんは餓鬼道から救われたというのがお盆の起源とされ、救われt極楽に昇っていかれる様子を見て踊りあっがって喜ばれたのが盆踊りの元とされています。
畜生道は、犬や猫、牛や馬などの動物の世界で、人間に可愛がられていても捨てられたり、人間に食べられたりして苦しまなければならないのでしす。
修羅は、戦ばかりを絶え間なく繰り返される世界で、悲惨な苦しみばかりの世界です。今のロシアがウクライナを侵略して殺戮破壊をくり返しているようなものです。
人間は、人間の世界で人を疑い、妬み、喜び、苦しみを繰り返す世界です。
天上は、天女が飛び、楽しい世界です。
生前の行いによって、最悪の場合は地獄に落ちて際限がないくらいの長い時間地獄の苦しみ(下を抜かれたり、串刺しにされたり、火で炙られたり)を受け、やっとそれが済んだら、他の道に生まれ変わり、それをずっと繰り返すのです。たとえ人間かr天国に生まれ変われたといても、ちょとしたことで次は修羅や畜生、地獄にあ生まれなくてはならないのであって、それは六道輪廻の苦しみなのです。

六道輪廻を超えるのが

西洋に方で、日本人は死んでからも輪廻転生によって生まれ変わるから羨ましいと仰った方がおられましたが、輪廻転生が苦しみだということをご存知なかったのだと思います。
お釈迦様がお生まれになった時、生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と仰せられたとの話がありますが、それはお釈迦様が6度うを越えられるということを示しているのです。
六道輪廻の苦しみを越えるには、修行を積んで煩悩を滅し悟りを開かなくてはならないのです。

ところが人間は

生きている限り、煩悩を滅することはできないのであって、悟りを開くことができないのです。南伝仏教と呼ばれるスリランカや、タイ、ミャンマー、ベトナムなどに伝わった上座部仏教でも、生きている限り悟りを開くことはできないから、修行を積んで六道のうちの人間に生まれ変わり、また修行を積んで人間に生まれ変わり修行をする、それをずっと繰り返してお釈迦様の次の仏様である「弥勒菩薩」が現れてくださるのを待つというもので、途方もない時間をかけて悟りを目指すのです。
インドから中国に伝わり、やがて日本に伝わった北伝仏教でと呼ばれる仏教でも、大多数は南伝仏教と同じで、修行に励み人間に生まれ変わって弥勒菩薩によって悟りを開かせていただくのです。しかし人間に生まれ変われなかったら六道輪廻の苦しみから抜け出せないのです。それに生きているうちに修行を積むことができない人たちが人間の大多数であり、その人たちは絶対に悟りを開けない、救われないということになります。

阿弥陀如来の教えは

修行することができない、煩悩は来ている限り滅することはできない我々のために、阿弥陀如来が菩薩から仏になろうとされる時に四十八の願い(本願)を立てられ、全ての人々が救われないなら仏にならないと誓われ、その誓いが成就したので菩薩から仏になられたのです。
それが浄土の教えであり、阿弥陀如来の御名前を称える浄土の教えを一般の人々に教えて下さったのが法然上人で、法然上人の教えをより純粋にされ、たとえ一度なりともお念仏を称えたら極楽浄土に生まれることができると示して下さったのが親鸞聖人なのです。
だから、我々は命が終わって極楽浄土に往生して悟りを開くことができるのに、それに気づかず生きているのです。

お念仏に教えに出会うことで

お念仏の教えに出会うことで、煩悩を滅することなく備えたままの我々でも、ロク堂の苦しみを越えていき、極楽往生できるのであって、それは生きとし生ける物全てに対して救いの手を差し伸べて下さっているのであり、仏様との契約ではなく、神様との契約をした人間だけが救われ天国に召されるキリスト教の教えとは少し違うところです。それは、お念仏の教えに出会わなくて亡くなったとしても、亡くなられるっことで残された家族や縁者の方が弔いをして、たとえ一度なりともお念仏を称えたなら、お念仏に出会えず亡くなった方も、残された人たちにお念仏と出会わせたきっかけを作ったご褒美として極楽往生できるので。

まとめ

恭敬の会は、お念仏の教えに出会わず亡くなった方も、残された方がお念仏を称えるきっかけとなるのですから、お念仏に出会えず亡くなった方も極楽に往生できるのです。それが恭敬の会の 送骨 訪問預骨 永代経 永代供養なのです。

恭敬の会 の送骨 訪問預骨

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