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奴隷解放

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2022.09.22

奴隷解放について

西暦1862年九月二十二日、アメリカ合衆国において第十六代エイブラハム、リンカーン大統領によって「奴隷解放」の予備宣言が公布されました。
そのころのアメリカは北部のアメリカ合衆国と南部のアメリカ連合国の二つに分かれて南北戦争の真っ最中でした。

南北戦争

南北戦争は、西暦1861年から1865年にかけて、北部のアメリカ合衆国と、南部のアメリカ連合国の間によって行われた内戦で、奴隷制度を存続させると主張したミシシッピー州、フロリダ州などの南部の11州が合衆国から脱退してアメリカ連合国を作り、北部の23州との間で戦争になりました。

南北戦争の背景

当時のアメリカは、南部と北部の経済、社会、政治的な違いが拡大し、南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで、特に綿花をヨーロッパに輸出していて、プランテーションは黒人の奴隷の労働力によって支えられていて、大規模な農園の所有者が実質的に南部を支配して、綿花栽培の急速な発展は、イギリスの綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うものであり、イギリスを中心とした自由貿易圏に属していることが南部の利益となっていました。片や、北部では米英戦争によるところのイギリスの工業製品の途絶で急速な工業化が進んでいて、新たな流動的な労働力を必要としていて、奴隷制とは相入れなかったのです。また、ヨーロッパの工業製品に対抗するため保護貿易が求められ、それによって奴隷制と貿易に対する認識が違った、奴隷制を認めない自由をスローガンにした北部の「自由州かっこと、南部の奴隷州の対立が激化し、それが財政難に陥ったフランスからルイジアナ、テリッとリーを購入し、メキシコから独立したテキサス共和国とカリフォルニア共和国が合衆国に加えられ、それによって上院の均衡が崩れていき、南部は奴隷州が少数派になりことを危機感をいだくようになり対立が先鋭化していき、西暦1857年以降、ドレット、スコット対サンフォード事件の判決や、カンザス、ネブラスカ法、ジョン、ブラウンによるハーパーズ、フェリー襲撃事件といったことが起こって、南北の対立は一触即発の状態となりました。

南北戦争の経過

西暦1860年11月、大統領選挙で奴隷制が争点となり、共和党のエイブラハム、リンカーンが当選し、同年12月にサウスカロライナ州が翌年2月には、ミシシッピー州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が合衆国を脱退しアメリカ連合国を結成しました、西暦1861年3月にリンカーンが大統領に就任すると、南軍がサムター要塞の戦いで戦端が開かれ、5月になるとバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州が連合国に合流し、4月19日にリンカーン大東呂は南部の海岸線の海上封鎖を宣言し、それが拡大され南部の経済を締め付けていきました。7月に第一次ブルランの戦いで何ぐんの抵抗で、バージニアへの侵攻が頓挫し、戦争は長期化する見込みとなりました。西暦1862年3月になるとリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻し、七日間の戦いで北バージニア軍に大損害を与え、第二次ブルランの戦いでは南軍に敗北したのですが、アンティータムの戦いで北軍が勝ち、戦局が持ち成したを見て9月22日にリンカーン大統領は「奴隷解放宣言」をしたのです。西暦1863年ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し、西暦1864年5月、アトランタ方面作戦が開始され、9月にはアトランタを陥落させ、西暦1865年1月にカロライナ方面作戦が開始され、3月に最後の攻勢のアポマトックス方面作戦が開始され、4月9日にアポマトックス、コートハウスの戦いで南軍のリー将軍が降伏して戦争が終結しました。


南北戦争の結果

奴隷解放を宣言し、奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出して戦かって勝利したことによって、南部の諸宗派北部による軍事占領下になり、奴隷制からの解放をされ、奴隷だった黒人に投票権あ与えられました。それが西暦1877年以降に南部の白人が州内において主導権を取り戻して、西暦1890年代になると南部では有色人種に対する隔離政策が立法化されて、奴隷こそなくなったのですが人種差別はふたたび強化され、これが改善されるのは西暦1950年からの公民権運動を待たねば成りませんでした。
しかし、リンカーン大統領の奴隷解放宣言が出されたことがきっかけとなり、人種差別がなくなる動きとなりました。

日本における奴隷について

日本では、被差別部落の問題がありましたが、それは賎民という考えからであって奴隷では無いのです。ところが日本にも奴隷があったのです。それは日本国内で奴隷があったのではなく、戦国時代にスペインやポルトガルの船が宣教師とともに来て、不況しながら、日本人を奴隷として東南アジアに連れて行ったといくことがありました。それを知った豊臣秀吉が日本に民を奴隷として連れて行くなど許せないと怒ってキリシタンを禁教にしたということがあって、他人事では無いのです。

まとめ

アメリカではリンカーンの奴隷解放宣言から100年以上かかって黒人への差別が減りつつあり、奴隷では無いにしても日本でも被差別部落への差別がようやくなくなる寸前まできました。人間は自分の中に善い心と悪い心を持っていて、悪いと知りながら行ってしまうのであり、これを人を苦しめ惑わせることで仏教では煩悩と言います。それはこの世で生きているうちは、無くすことはできないのであって、浄土の教えでは生きているうちに例え一度なりとも念仏を称えたた人は、この世での命が終わったらすぐさま極楽浄土に生まれることができるのです。「恭敬の会」は、浄土の教えをより広い方々にお伝えするために、僧侶が伺って礼拝の対象としての三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めし、一緒に合掌しお念仏を称え、お骨を預かって納骨し、一緒にお念仏さてくださった方々にも、極楽浄土に生まれてもらえるようにするのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は全ての人々の安心を得られるのです。

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