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妹の誕生日

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2022.07.30

一昨日は妹の誕生日

一昨日の七月二十八日は、宗祖親鸞聖人の例月の御命日であるととも、彦根に嫁いだ妹の誕生日でした。
今から六十一年前、二歳の私は市立長浜病院で母の兄である修麿伯父に抱っこされて階段を登ったり降りたりしてあやされていました、何故だか抱っこされているのをよく覚えているのです。それはその日、少し大きくなっってから修麿叔父から聞いたのですが、ひょっとしたら母の命日になったいたかもしれないし、妹の命日になっていたかもしれなかったということです。

父と母の縁について

父 圓導と、母 美沙子は、またいとこで、曽祖母は敦賀にあった祐光寺という本願寺派のお寺から嫁いできていて、母方の祖母(一子)は曾祖母の姪でした。
曾祖母の実家であった敦賀の祐光寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、曾祖母は明治三十年頃に蓮通寺住職で曽祖父圓系の元に輿入れしてまいりました、今でもその輿入れで使った駕籠が残っていて蔵にしまってあり、昭和二十七年蓮通寺で蓮如上人四百五十回御遠忌が勤められた際、時の長浜別院住職 霊源院闡恵師が御門跡の代理として御参修され、宿からご乗李いただき、後年私に「君のお寺で駕籠に乗せてもらった」とお話ししてくださいました。
曽祖父、曾祖母は、男子三人をもうけられ、長男の圓秀は旧制大谷中学を卒業後、本山東本願寺の内事(ご門跡やお裏方、大谷家の方々のお世話をする部署)に奉職し、二十三世彰如上人のお側に仕えさせていただき、東浅井郡大郷村落合(現在長浜市落合町)の専明寺の三女(菊江)と婚約したのですが、突然死去し、大阪の別院に勤めていた次男(圓英、えんのう)が蓮通寺に戻って結婚し蓮通寺住職となり、男子二人(父 圓導 と叔父 圓成 後に岐阜県来入寺に入寺)をもうけました。三男の圓照は本山からの命により、中国戦線の従軍僧侶として、中国に赴いていたのですが病に倒れ昭和十六年に亡くなりました。
曽祖父も十六年に亡くなり、曾祖母は十七年に亡くなりました。
母方の祖母(一子)は、大正に祐光寺から坂田郡神照村国友(現在長浜市国友町。国友鉄砲で有名)の本願寺因乗寺に嫁ぎ、四男ニ女(母は末っ子のニ女)をもうけました。



父の母が結婚したことについて

先の大戦の敦賀空襲で、曾祖母と、母方の祖母(一子)の実家である祐光寺が火災で焼けてしまい、長男の祐光寺住職は東京の世田谷に移り住み、教員として過ごし敦賀に帰ることなくなくなりました。次男は奥さんが伊豆の下田の出身だsったのでその縁を頼り下田に移り、その際に祐光寺のお内仏のご本尊も下田に移しました(十年前にそこの後継者が亡くなり、蓮通寺でその御本尊を奉安しています)。それによって祐光寺は敦賀からは亡くなってしまい、祖父圓英もたいそう悲しみ寂しがったと、祖母菊江から小さい頃話してもらいました。母方の祖母一子も実家を無くし悲しみにくれたそうです。
父 圓導は 旧制大谷中学を卒業して本山東本願寺に奉職し、長浜別院に配属され、後に私が生まれた頃本山に戻り、今のように電車の便がよくなく時間がかかっていましたが蓮通寺から通ってました。
母 美沙子は、新制虎姫高校を卒業し滋賀大学教育学部に進み、二歳歳上の修麿兄(叔父)も滋賀大学教育学部(卒業後、中学校の教員となり、最後は校長になりました)だったことから大津に一緒に住み、卒業の後教員となり小学校で子供たちを教えてました。
祖父圓英も、母方の祖母一子も、敦賀の祐光寺の縁を大切にしたいと願っていたこともあって、またいとこ同士の父と母が結婚することになり、昭和三十年に結婚し、昭和三十四年に私が生まれました。予定より三ヶ月ほど早く生まれたそうで、急だったので病院にいくことができず地元の産婆さんに取り上げてもらい、普通の半分くらいの大きさだったそうですが、今では想像もつきません。 

妹が生まれるにあたって

私が生まれて二年たち、母が又懐妊し予定日が近づいてきた時に体調が崩れてしまい、市立長浜病院に入院し予定の七月二十八日を迎える前に、主治医の先生から母体が危ないから、母親を取るか、お腹の中の妹(その時はまだどっちかわからなかった)を取るか、選択を申し渡されたそうで、それで私は修麿叔父に抱っこされて階段であやしてもらっていたようです。
その時、母体が大事と母をとっていたら、妹と会うことがなかったかもしれませんし、彦根の義弟や甥っ子、姪っ子たちと会うこともなかったかもしれませんし、こんなことで母はもう懐妊することなく一人っ子になっていたかもしれません。片や妹をとっていたら、生まれて二歳で母を亡くして一人っ子のままだったかもしれませんし、継母がきたとして弟か妹が生まれたとして、私は蓮通寺にいなかったかもしれず、住職になっていなかったかもしれません。
ところが、二者択一せずに済み、母も無事で妹も無事だったので、家族になれました。

ご縁と運命によって

二者択一しなくてよく、母も妹も無事だったことは、本当にありがたいことで、父も祖父も二人の祖母も、安堵し、それから祖母が亡くなる昭和53年まで十七年間は六人家族として、喜怒哀楽を一緒に過ごせました、父と母が仲良くしている姿や、夫婦喧嘩している様子、それらを見たり、通知表をもらってきて、両親揃ってお小言を言われたことも、今では良い思い出ですし、それによって今の自分があり、妻や子供たちと暮らしていけてることだと思い、これはなみなみならぬ深いご縁と運命であり、仏祖のおかげだとつくづく感じるのと、報恩感謝しかないと思います。

まとめ

父と母が結ばれる縁、さまざまな事柄についての出来事は、仏祖の賜物で、そのように捉えられ感じるようになったことを感謝すると共に、これをもっと広い人々にも感じてもらいたいと願うのです。まだまだ足らないのですが、私のように感じられるような人が増えたなら、人の心の弱み不安につけ込みマインドコントロールされ、カルトにはまって苦しみ、人を傷つけてしまったりすることも少なくなるのではないかと思い、それは先祖や家族縁のある方々を粗略に扱わないことが入り口で、そのお手伝いをできるのが 恭敬の会の役割で、恭敬の会の送骨、訪問預骨 永代経、永代供養なのです。

恭敬の会の送骨 訪問預骨

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