Blog ブログ

安心について

ブログ

2022.07.18

安心って

安心って言葉について、お話しします。
安心は現在(あんしん)と読み、心に安らぎと満足が与えられること、または安らぎを与えられた状態のことを言います。また、反対の意味としては「心配」ということがあります。
例えば、働いているところに急に連絡が来て、何か起こったのではないかと心が動揺していたが、何も起こってなくて安心したとか、健康診断を受けて、要再検査とか言われたり、何か書面が送られてきて、それで病院に行き再検査を受けたところ、病原が見つからなくて安心した、というような時に安心したと使ったりします。

安心の意味

安心は、今はあんしんと読みますが、本来は(あんじん)と読みます。
安心の「安」には「静なり、定なり、置なり」の意味がありますが、中国浄土教のんかで重要な方であり、親鸞聖人が七高僧に一人と崇められた善導大師の著作であり、浄土往生を願う心境を讃偈に表された『般舟讃』の「安心定意」の意味からすると、決定満足の心で、信心を意味して、新人が定まるのを安心決定(あんじんけつじょう)と言います。
また信心にもとずき、身口意の三業(身体的な行動である身業、言葉を発する口業、心に思う働きの意業の三つを総称したもので、必ず善悪、苦楽の結果の果報をもたらしてこれらの行がある限り輪廻から逃れられない)である「起業、作業」に対する言葉で、また教相(きょうそう、お釈迦様が説かれた教法の形式や内容に種々な特徴や相違点がある)に対する意味でもあります。
中国浄土教の祖師も一人で、親鸞聖人が七高僧の三番目として崇められた曇鸞大師が、同じ七高僧であるインドの天親菩薩の著書『浄土論』の注釈書として著作された『浄土論注』には「衆の数に入り己理ぬれば、まさに修行安心の宅に至るべし、宅に入り己れば、まさに修行所許の屋寓に至るべし」と記されてあり、また善導大師の『般舟讃』には、「安心定意して安楽に生ず」と記されている。善導大師は『往生禮讃』には「いかんが安心、起行、作業してテインで彼の国土に往生することを得るや」と記され、『觀無量壽仏経疏』「序義」には「いかんが安心し注想して清浄処に生ずることを得るやということを明かす」穢土は「安心の地有ること無き」、「定義」には「安心して境を取れ」と言われるのです。
安心、起行、作業については、一般に観無量寿経(浄土三部経の一つ)の三心(観無量寿経の上品上生で説く真実の心である至誠心、深く信ずる心で有る深心、自分や他が修行した菩提心を廻向発願心との三つの心)を「安心」として、五念門(阿弥陀仏の浄土に生まれる礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門、廻向門の五つのこと)や、五正行(正依の経典にもとずいて、まさしく因法(種を作る法)で、浄土の教えを読誦し、阿弥陀仏とそのお姿を観察し、阿弥陀仏を礼拝し、名号と称え、功徳を讃えて供養する五つの正しい)を起行、四種(行を修するための軌則で、長きにわたって修行する長時修、休まずに修行する無間修、つつしみ敬う恭敬修、残すことなく完全に修行する無余州の四つの修行)を作業とするのです。

浄土真宗では

本願寺三代目の覚如上人は『改邪抄』に「そのうち起行、作業の篇をばなを方便のかたとさしおいて、往生浄土の正因は安心をもって定得すべき善を釈成せらるる条顕然なり 〜 それについて三経の安心あり、そのなかに大経をもて真実とせらる、大経のなかには第18の願をもてほんとす、18の願に取てはまた願成就をもて至極とす、信心歓喜乃至一念をもて他力の安心とおぼしめすゆへなり」と述べられていて、すなはち、本願成就文に「門其名号信心歓喜乃至一念」とあるのを安心の根本だるとされています。
本願寺八代目の「蓮如上人」は『御文』で、「一流の安心の体という事、南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべしと述べられて、他力の安心は「あらやうもいらぬとりやすき安心や、されば安心とといふ二字をばやすきこころとよめるはこのこころなり 〜 あらこころえやすの安心や、又あらゆきやすの浄土や」、「なにのようもなく一身にうたがひなくたのめば、安心とはやすきこころとよめるはまことに道理にかなヘり」ともものべられています。
信心が決定して得られるのが安心なのです。

まとめ

我々が普段よく口にし使う「安心」は、自分が起こした行動が上手く運んで守備良く進んだ時や、危惧する事柄に対して危惧がなくなった時なんかに使い口にするのですが、一つの事柄だけに対する結果に安堵するのです。でもそれでは本当の安心(仏様の教え、浄土真宗の教えで示す安心ではないのです。本当に安心するためには自分に都合や思いが満足するのではなく、自分自身だけでなく周囲の人々や社会身心が穏やかになれ、それが続くことでなくてはならないのではないでしょいうか。
その真実の安心を得るためには、自分は思い上がっていないか、自分だけで生ているのではないか、自分の都合のことだけで判断していないか、を考えて自分の本当の姿を知ることが大切なのです。
本当の自分を知ったなら、亡くなった方に対する思いは高くなり大事にしなくてはならないという気持ちが起こってきます。その大切にする気持ちを表せていくのが恭敬の会の活動であり、恭敬の会の納骨、送骨 訪問預骨、永代経、永代供養なのです。

恭敬の会

恭敬の会の送骨 訪問預骨

この記事をシェアする