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岩倉具視

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2022.09.15

岩倉具視について

明治維新の立役者で維新の十傑のうちの一人と言われている「岩倉具視」が生まれた日です。最初公武合体を推進しようとし、後に倒幕派になり、幕府が倒れた後は明治政府の首脳部の一員として版籍奉還や廃藩置県などの重要なことに関わり、また岩倉使節団の海外巡遊の正使として重要な役割を果たし、東京に明治天皇が移られたことから荒廃しかけていた京都の復興に尽力しました。

岩倉具視の生涯 出生から安政の大獄まで

文政八年(西暦1825)九月十五日、羽林家の公家である堀河康親の次男として生誕し、幼名は周丸で、朝廷に仕える儒学者の伏原宣明に入門し、伏原は秀丸が大器を見抜いて同じ羽林家の公家である岩倉家への養子縁組を推薦し、天保九年(西暦1838)岩倉具慶の養子となり、具視となり。十二月十一日元服し昇殿を許され、翌年から朝廷に出仕しました。岩倉家は、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の公家の家格の一つの羽林家で、近衛少将、中将を兼ねて、参議から中納言、最高は大納言まで昇進できる家格なのですが、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であったので、叙任される位階や官職は高くなく、家職もなかったので、家計は他の堂上家と同じく苦しかったのです。蓮通寺もこのような公家に援助していました。嘉永六年(西暦1853)関白鷹司政通に歌道の入門をし、これが朝廷の首脳に発言するきっかけとなったのです。
安政五年(西暦1858)「日米修好通商条約」の勅許を得るために江戸から老中の堀田正睦が上洛し、関白九条尚忠は勅許を下す駅と主張し、朝廷内は紛糾し、岩倉具視は反九条派の公家たちを結集させ八十八人が呼応し参内し、このことで勅許は下りなかったのです。その後幕府に大老井伊直弼が勅許が下りないまま日米修好通商条約を締結し、それに抗議した水戸徳川家の徳川斉昭や福井の松平春嶽らを謹慎処分にし、尊皇攘夷派に対する安政の大獄と呼ばれる弾圧を行い、岩倉具視は弾圧が朝廷に及ばないようにするため、京都所司代の酒井忠義らと会談し、意気投合し幕府寄りの姿勢になりました。


和宮降嫁から明治維新

安政七年(西暦1860)、大老井伊直弼が桜田門街で暗殺され、幕府内で公武合体派が勢いを盛り返し、孝明天皇の妹宮の和宮を将軍徳川家茂に降嫁させてほしいとの願いが出され、孝明天皇は最初反対されたのですが、岩倉具視の意見書を読み、岩倉に直接諮問sれ、それによって効果が決まり、岩倉は高架の支度を手配し、和宮の効果に随行し、それは勅旨としての使命も持たされたのです。
江戸女にて岩倉は、老中らに誓書を出すように迫り、将軍家茂の名で誓書を出し、孝明天皇はこれを大変喜ばれ、功労を労われました。
文久元年(西暦1861)から高まった尊王攘夷の波派いよいよ高まって、京都所司代と親しくしていた岩倉具視は佐幕派とみなされ、蟄居させられ西賀茂の霊源寺に身を隠し、ついで洛北の岩倉に蟄居することになりました。
元治元年(西暦1864)、禁門の変が起こり京都の攘夷強行論者が一掃され、慶応元年(西暦1865)岩倉は薩摩藩の動向に呼応するようになり、佐幕派から倒幕派に変わりました。慶応二年(西暦1866)から始まった第二次長州征伐はうまくいかず、十二月二十五日に俄に孝明天皇が崩御され、明治天皇が践祚され、翌年即位され、大政奉還がなり岩倉も赦免され、薩摩大久保利通ら徳川慶喜の辞官納地させる計るようにし、慶応三年(西暦1867)、岩倉らが参内して王政復古の大号令案を奏上し、岩倉具視や大久保利通を参与とする新政府が樹立されました。徳川慶喜は二条城から大坂に移り翌年の明治元年(西暦1868)鳥羽伏見の戦いが起こり、岩倉が徳川征討に賛成したことで、錦の御旗を掲げた新政府軍が勝利し、慶喜は江戸に移り、岩倉の発言力が高まっていき、新政府の組織で重要な部門を任されることになり、明治政府の首脳となりました。
それは、行政官の中の「輔相」という、国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職でした。江戸城が無血開城され、明治天皇は東京と改称された江戸に行幸され、岩倉も供奉し、翌年には京都市還幸されました。
政府では版籍奉還が行われ、政府は古代の律令制を模した体制となり「省」が置かれ中央集権の国家を目指しまし、廃藩置県が行われ、旧大名諸侯、公家、維新に功績があった者で構成される華族制度が始められ、統一国家とあるようになったのです。版籍奉還が来なわれた日、岩倉は外務卿となり、その後欧米に使節団を派遣することになり、岩倉が特命全権大使っとして赴き、赴いた各国でカルチャーショックを受け、アメリカでは鉄道の必要性を感じ、イギリスでは工業技術に圧倒され、使節団は条約改正の目的から各国への留学が目的となりました。
その後、征韓論で政府内は揉めたのですが、岩倉らの意見が通り静観は無くなりましたが、これが西南戦争の元ともなりました。その後は議会開設、憲法制定の際も、最終的な判断を行いました。また、東京に天皇が移られたために荒廃しかかった京都の復興に尽力しました。今の京都があるのは岩倉具視のおかげと言えるかもしれません。
明治十六年(西暦1883)七月二十日、咽頭癌により享年五十九歳で死去しました。





まとめ

岩倉具視の行ってきたことを考えたら、彼がいなかったら、明治維新は起こらなかったかもしれないと思い、起こったっとしても京都も寂れたままになってしまったかもしれません。しかし、これは歴史の流れの決まっていたことで、岩倉具視は自分に与えられた役目をしっかりっと果たしたのでしょう。自分に与えられた役目といえば「恭敬の会」も与えられた役目があり、それは今の人々も亡くなった方々を大切にし、丁寧に供養液るようにするにはどうしたら良いのかという方法を考え、それを行っていかねばならないという役目なのだと考えます。それは簡単にお骨を送るだけで済ましては、亡くなった方にも先祖にも申し訳ないことで、後で後悔の念が起こるかみしれないから、僧侶がお伺いし、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めし、お骨を預かって納骨するのが大事にすることなのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、これからの世の中の必要な役割を担っています。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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