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崇徳院

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2022.08.26

崇徳院

本日は、「崇徳院」の御命日。
崇徳院は、菅原道真、平将門と共に非業の死を遂げた方で、日本の歴史上三大怨霊と言われています。このことは、歴史学者の山田雄司氏によると、江戸時代の読本や歌舞伎などが大きく影響しているとされています。
「瀬をはやみ 岩にせかるる瀧川の われても末に 逢はむとぞ思う」という小倉百人一首の歌でも有名です。

崇徳院(崇徳天皇)

「崇徳院」は譲位して上皇になられてからの称号です。
「崇徳天皇」は、元永二年(西暦1119)に鳥羽天皇の第一皇子として生まれになり、諱は「顕仁」、母は中宮の待賢門院 藤原璋子です。 保安三年(西暦1123)数え年五歳で皇太子となられ。すぐさま鳥羽天皇が譲位され践祚され、翌年二月に即位されました。大治四年(西暦1129)に、関白藤原忠通の長女の藤原聖子(皇嘉門院)が入内して中宮となりました。同年の七月に祖父の白河法皇が崩御され、父鳥羽上皇が院政をはじめられました。
鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛され、永治元年(西暦1141)美福門院が産んだ躰仁親王に譲位するよう崇徳天皇に迫り、中宮に藤原聖子の養子であり崇徳天皇の養子とし近衛天皇として即位させたのです。その際に上位の宣命に「皇太弟」と記され、弟では将来陰性を行うことは不可能で、この譲位は遺恨の元となりました。


鳥羽法皇との対立

崇徳院は譲位する前から頻繁に歌会を催されていましたが、譲位されてからは和歌の世界に没頭され、『久安百首』を作成され、『詞花和歌集』を撰集され、父の鳥羽法皇が和歌には熱心でなかったことから、この頃の歌壇は崇徳上皇を中心に展開され、鳥羽法皇も表向きは崇徳上皇に対し鷹揚で、崇徳上皇の第一皇子の重仁親王を美福門院の養子に迎え、これにより近衛天皇がこが生まれないまま崩御したら、重仁親王が即位することも可能になり、こお頃は鳥羽法皇と崇徳上皇の仲は比較的良かったようです。
ところが、久寿二年(西暦1155)近衛天皇が十七歳で崩御され、その後継を決めることになり、重仁親王が有力だったのですが、美福門院のも一人の養子である守仁親王がが即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が即位する子tになって「後白河天皇」となり、有力だと目されていた重仁親王は即位できなかったのです。それによって、崇徳上皇が治天の君として院政を行う望みは打ち砕かれたのです。

保元の乱

保元元年(西暦1156)五月、鳥羽法皇が病に倒れられ、崇徳上皇は見舞いに訪れられたが対面はできずに、憤慨して院の御所である鳥羽田中殿に引きかえさ、七月に鳥羽法皇が崩御されたことで事態が急変し、藤原忠実、頼長が荘園から軍兵を亜埋めることを停止する綸旨が出され、それと時を同じくして蔵人の高階俊成、源義朝の兵が摂関家の本邸である東三条殿に乱入して、占拠したのです。
七月九日、崇徳上皇は「上皇左府同心」の噂が広まっていて身の危険を感じ、鳥羽田中殿を抜け出し、白川にある統子内親王の御所に押し入られたのです。
七月十日、藤原頼長が宇治から上洛して白川北殿に入り、平家弘、源為義、平忠正らが集まり、天皇家、摂関家、源氏平氏が内部で対立する「保元の乱」になったのです。後白河天皇側についた源義朝、平清盛らによる夜襲にあい、白川北でんは焼け落ちて、崇徳上皇は脱出して東山の如意ヶ嶽に逃れられたのですが、投降っを決意し剃髪して、仁和寺に向かい同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼されるが断られ、讃岐国に配流されることになり、武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、讃岐に下られました。

怨霊として恐れられる

讃岐に配流された崇徳院は「讃岐院」と称されるようになり、讃岐での軟禁生活する中で、仏教に深く帰依され極楽往生を願われ、『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』の写本作りに専念され、戦死した人の供養と反省する証に、完成した五つの写本を、都の寺に奉納して欲しいと朝廷に送られたのですが、後白河院は呪詛が込められているのではないかと疑われ、これを送り返してしまわれたのです。これに激しく怒られた崇徳院は、舌を噛みその血で送り返された写本に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇と成さん」「この経を魔道に回向す」と書き込まれたと言われておます。その一方では『今鏡』に「憂き世のあまりにや 御病ひも年に添えて重らせ給ひければ」とあるように、自らをはいるにした者への怒りや恨みはないようで、また、讃岐で詠まれた「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてらる こころぼそさを」とういう歌をみても悲嘆の気持ちは伺えても怨念を抱かれてる様子はないのです。
それが、安元三年(西暦1177)になって、延暦寺の強訴、安元の大火などが起こって社会が不安定になって、崇徳院の怨霊ということが話題になり、後白河院や藤原忠実に近い人たちが相次いで亡くなったことで、怨霊が意識されて、寿永三年(西暦1184)保元の乱の古戦場跡に「崇徳院廟」が建立されました。
時代は下って、明治天皇は即位される際、勅使を讃岐に遣わされ、崇徳上皇の御霊を京都に帰還させ「白峯神宮」を創建されました。

まとめ

崇徳天皇は数奇な運命に翻弄され、怨霊と恐れられたのですが、讃岐では人々から崇められ、今では京都を守る神となられ人々の信仰を集めています。これは亡くなった直後には何も出来なくても、のちにきちんと供養を行えば安心できるようになることの際たることではないでしょうか。「恭敬の会」は、事情により亡くなってすぐには行えなかったお悔やみを、負担が少なく、しかし丁寧にお勤めし供養を行うことで、後悔、心配という心の負担がなくなるようにする為のものです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、安心ををおとずれます。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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