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恭敬の会のお供養の根元 平安

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2022.10.27

恭敬の会のお供養が目指す平安

恭敬の会のお供養が目指すのは全ての人々の平安です。それはただお骨を送るだけの「送骨」では、送られた方が後に、きちんとお勤めをしお供養をしておけば良かったと後悔されておられる人がおられるのを聞いて、どうすれば従来のような負担がかかる供養でなく、きちんとお供養ができて納骨できるのかという問題に対しての、一つの答えとして「訪問預骨」なのです。それによって後に後悔することなく心の平安が得られるのです。平安といえば、今の京都は平安京と呼ばれる都でした。今日はその都の平安京に桓武天皇が延暦十三年(西暦794)十月二十二日に遷都された日です。

平安京

七十年余り続いた奈良の平城京でいたが、後半になると寺院が力を持ち始め、朝廷の運営に支障をきたすようになって、光仁天皇の後を受けられた桓武天皇が、大和国の北の山城国の長岡の地に遷都を計画され、延暦三年(西暦784)に遷都されました。平城京は物資を運搬するための水路がなく、陸路に頼るしかなく、効率的な流通がで書いませんでした、長岡京は三つの大きな川があって、舟で全国からの物資を運び込むことが可能でした。しかし小畑川の氾濫が続いたのと、桓武天皇の側近で遷都の事実上に責任者であった藤原種継が暗殺されたり、その暗殺に関わったと疑われた早良親王が淡路に流される途中に無実を訴えるために絶食して河内の国で絶命してしまい、その怨霊が祟っていると噂され、長岡京から北東に位置にある平安京に移ることになりました。
平安京は京域の北端の中央に大内裏を配置し、東西南北に道路を渡した碁盤目状に区画された都市で、市街の中央に朱雀大路を通して、その左右に左京、右京が置かれ、整然とした街並みは中国の唐王朝の首都で、世界最大の都市に成長したいた長安を模して作られました。北と東と西に山があり、南にひらけた四神(北の玄武、東の青龍、西の白虎、南の朱雀)相応の地として、「たいらかでやすらかな都、平安であって欲しいという願いも込められて、平安京と名付けられ、それまで「山背国」と書いてやましろと読んでいた国名を「山城国」と表記を変更して、山城国が諸国の筆頭であると表明して大和国などと差別化して、奈良の平城京に戻そう他する動きをも牽制されました。「此の国は山河襟帯にして、自然に城を作す、其の継承に因みて、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。又子来の輩、異口同音辞し、号して平安京と曰す」と『日本紀略』延暦十三年と記されて、これ以降一千年にわたって都となり繁栄しました。

時代祭

明治になり、天皇が江戸から改名した東京にお移りになると、京都は衰退していくようになったのですが、琵琶湖疏水をひいて産業を奨励し、岡崎の地に平安神宮が建立され、平安遷都の日を記念して「時代祭」が行われるようになりました。これは明治二十八年(西暦1895)平安神宮が創建され、神宮んお管理と保存のための市民組織として平安講社が作られ、その記念事業として「祭り」が始められ、、祭りを盛大にするために東京に明治天皇がお移りになる以前の京都の風俗お遡る時代行列が提案され、「時代祭り」と呼ばれるようになりました。初回は創建されたばかりの平安神宮への参拝として明治二十八年十月二十五日に行われ、次の年から祭神である、桓武天皇と孝明天皇のニ柱の御霊が、お住まいであった御所から街の繁栄を見ながら行列のお供を従えて神宮に行くという形になり行われる日も桓武天皇が長岡京から遷都された日の、京都の誕生日とも言える十月二十日になりました。

時代祭は京都市民のお祭り

時代祭の行列は、京都市全域の市民によって組織された「平安講社(各学区ごとに編成される「組」を単位にして構成されているところの全十一社)によって運営されています。当初は六列、人員五百名の規模でしたが、現在では明治維新の時代、江戸時代、安土桃山時代、室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代の八つの時代を二十の行列に分けて一列ずつ担当しているほかに、江戸時代婦人列、中世婦人列、平安時代婦人列は京都の五花街(祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東)が輪番でご奉仕するなど、総勢二千名もの人々が参加する一大行列です。行列は八つの時代、二十の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、最初は明治維新、ついで江戸時代、安土桃山、室町、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡っていきます。
明治維新時代は、平安講社第八社(中京区、朱雀学区)が奉仕する「維新支士列」江戸時代は、平安講社第六社の(下京区、南区)が奉仕する「徳川城使洛列」京都地域女性連合会が奉仕する「江戸時代婦人列」、安土桃山時代は、平安講社第十社(伏見区)が奉仕する「豊公参朝列」、平安講社第五社(東山区、山科区、中京、下京区の一部)がほうしする「織田公上洛列」、室町時代は平安講社第九社(右京区、西京区)が奉仕する「室町幕府執政列」、「室町洛中風俗列」、「楠公上洛列」、花街輪番奉仕の「中世婦人列」、鎌倉時代は平安講社第四社(中京区、下京区)が奉仕する「「城南流鏑馬列」、藤原時代は平安講社第三社(上京区、中京区)が奉仕する「藤原公卿参朝列」、花街輪番奉仕、京都地域女性連合会奉仕の「平安時代婦人列」、延暦時代は平安講社第ニ社(北区、上京区、左京区、中京区の一部)が奉仕する「延暦武官更新列」、平安講社第一社(北区、上京区)が奉仕する「延暦文官参朝列」、神幸列は京都料理組合が奉仕する「神饌講社列」、平安講社第七社(左京区)が奉仕する「前列」、などの列があって、盛大の都大路を練り歩きます。

まとめ

平安神宮のお祭りの時代祭りは、京都市民の祭りとして百年続いているのであり、それは平安の都、平らかで安らかに過ごせるようにとの桓武天皇の願いを受けて千年以上続いた都に感謝し、それを伝えていこうという気持ちで行われっていて、これは仏様に対して平安であって欲しいと、毎日合掌士拝んでいくことと同じように大切なことではないでしょうか。平安京の四神(玄武、白虎、青龍、朱雀)は、仏前を荘厳する花瓶、蝋燭の燭台にも受け伝えられていて、花瓶のヒレは青龍のヒレ、香炉の上のい獅子は白虎、燭台の下の亀は玄武、燭台の鶴は朱雀です。この平安を願う心で行うもが恭敬の会なのです。ただ送るだけの送骨と違って、送料が直接お伺して、礼拝の対象となう三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めをしてその後にお骨を預かって本坊にて納骨し、供養をずっと行います。これによって真の平安が訪れるのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、全ての人々の心の平安をめえざして行われます。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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