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恭敬の会の供養 花を手向ける

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2022.12.14

花を手向ける

今行われいる「送骨」では、亡くなった方の遺骨を郵パックでただ送ってて何処かの墓地に埋葬するだけでは、まるでいらなくなっった物を処分するだけのおようになって、後から後悔されたり、心の中にわだかまりが残るという方が居られるということから、恭敬の会では、僧侶がお家に訪問して礼拝の対象となる「三つ折り本尊」授与し、その前で丁寧にお勤めしその後遺骨を預かって、本坊の蓮通寺にて埋葬して、懇ろにずっと供養を行っていく「訪問預骨」を行っているのですが、それはが沢山ある様々な供養について、正しいことや間違ったことについてを検証して、正しいことはより広まるように、間違ったことは正していけるようにするための活動なのです。またその広報活動を行なっています。今回は葬儀の際、最近では亡くなった方の棺に色とりどりの生の花を入れて、一緒に火葬することが行われるようになってきて、「別れ花」などと言う言い方をして宣伝するインターネットのサイトまで存在しています。そには「故人が美しい花に囲まれてこの世から旅立てるように気遣う日本的な優しさは、死者に花を手向ける行為を廃れさせることなく、今後も世代を超えて継承されていくことだろう」などと表現され、さも正しい事のように書かれています。

別れ花

インターネットを見ていると、別れ花とは、故人の眠る棺の中に参列者が一輪ずつ花を供える告別式の終わりの儀式で、故人との最後のお別れをする大切な時間でもあります。などと説明されています。これは葬儀の祭壇に生の花が使われるようになってからされるようになったものです。葬儀の祭壇は一番上に屋形状のものは、祭壇の上に棺を運ぶ輿を上に載せたもので、葬列を組んで葬場まで歩くことが無くなってからは、祭壇と一体化し、屋形の真ん中に臨終仏をかけるか、名号をかけるようにしたもので、段の途中には山の物、里の物、海の物の乾物のお供えをしていたのです。棺は納棺したら蓋を釘等で留めて開けられることはできないようになっていました。花の祭壇は、昭和四十三年に吉田茂元総理の国葬を行う際に、宗教色を出さないようにするためという理由で、白い菊で祭壇を作るようになりました。それが最近では白い菊ではあまり儲からないので、色とりどりの生の花を使うようになり、高価な胡蝶蘭まで用いるようになってしまいました。それについては、故人が花が好きだったから、花で一日にして送ってあげたいというよいうな理屈を述べていて、個人と遺族、会葬者が死者を悼む感情を共有するためのコミュニュケーション媒体だとも説明しているのです。

ネアンデルタール人

今から5〜6万年前の旧石器時代に、ネアンデルタール人は洞窟の中で生活し、石を加工した道具で狩猟をしていたようです。西暦1960年代にイラクのシャダール洞窟でアメリカ合衆国の考古学者であったR、S、ソレッキ博士が、ネアンデルタール人の化石とともに、ノコギリソウやヤグルマギクなどの数種類の花粉を大量に発見し、周辺の花粉の量と比べると、化石付近の花粉の量が極端に多く、これらの花が昔から薬草として扱われてきたことから、ソレッキ博士はネオンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を遺体に添えて埋葬する習慣があった、との説を唱えたそうです。しかし、それは添えられた花の薬効で遺体の腐敗を少しでも防ごうとする物ではないかと考えられます。シャニダール洞窟の発見には諸説があるとのことで、旧石器時代には他にも死者を弔うために埋葬されたとされる化石が見つかったこともあって、数万年前の人々が死者を弔っていたことは確かだと言えます。

日本の葬送 仏教伝来以前

仏教伝来以前の日本における葬送は、石器時代、縄文時代、弥生時代となっていき、人々は家族が個別に暮らすもことから、複数の家族が一緒に暮らすようになり集落ができて、それが主張にもとで小さなクニとなっていき、それが統合されていき、やがて大和朝廷が一番力を持つようになっていくのですが、集落単位の時は、甕棺という素焼きの甕に遺体を入れて埋葬され、それが方形周溝墓と呼ばれる埋葬場所などが造られるようになっていきました、そこには花を副葬品とすることはありませんでした。首長が力を持っていき古墳が造られるようになると、素焼きの埴輪なのが荘られるようになって、副葬品も入れられるようになり、剣や勾玉や食器などが入れられましたが、生の花は入れられた痕跡はありませんでした。蓮通寺の近くのJR湖西線の高架で、遺跡を壊さないようにするため鉄橋がかかっている塩津丸山古墳群でも、生の花の痕跡はありませんでした。

日本の葬送 仏教伝来以降

仏教が伝来するまでの日本の葬送は、土葬でしたが、仏教伝来とともに火葬が行われるようになっていきました。仏教の葬送の元となるのは、仏教を開かれた釈尊が涅槃に入られた(お亡くなりになった)時の姿が元となっています。それは釈尊が八十歳になられ、お歳を取られ身体が弱っていかれ、沢山のお弟子方と共にラージャグリハから最後の旅に出られ、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向かわれヒランニャバッティ河のほとりにいかれ、サーラの林に頭を北にして左を下にし西を向いて横になられ、涅槃に入られました。その時阿難尊者をはじめとして沢山のお弟子方、沢山の動物たちが悲しんで、そばで咲いていた沙羅双樹の花が悲しみで枯れてしまい、白い花びらをお釈迦様に降らせました。この時の様子が「涅槃図」として描かれ、「如来涅槃の儀」となりました。親鸞聖人は師匠の法然上人が遷化(お亡くなりになった)された際に、和讃に「道俗男女予参死、如来涅槃の儀を守る」と詠まれました、これが浄土真宗の葬儀の基本となったのです。そこには、沙羅双樹が枯れたことにいなんで、紙で引用を現す金銀の紙華(四華とも言う)をお供え死、棺の側には「樒」をお供えするのです。

まとめ

現在おい葬儀は、キリスト教の影響を受けているのと、葬儀をイベント化セレモニー化して、本来の葬送のやり方を違えていて、個人に寄り添う、個人に手向けるなどと美辞麗句を並べ立て、人を惹きつけるようにして金儲けの手段になってしまって
いるのです、だから葬儀を行えない、行いたくない人が出現してきて、人に人生の最後の供養を行わないよう人ができているのです。そこで恭敬の会では全ての人々が負担が少なくキチンと供養を行えるために訪問預骨を行っているのです。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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