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恭敬の会の供養の元、報恩講

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2022.12.09

報恩講

十一月二十八日は浄土真宗の祖師である親鸞聖人の祥月命日で、一日午後から二十八日午前中まで、本願寺では聖人の御恩に感謝してお勤めをする「報恩講」お勤めされます。
恭敬の会で行う供養のお勤めも、亡くなった方に対する感謝の念を表すことが第一のことで、報恩講の個人番と言えなくもないかと思います。現在一般的に行われている「送骨」は、郵パックで遺骨を送るだけで、そこには亡くなった方に対する感謝の念を示すことなく、お骨を収めるだけで、ただお骨を処理するだけのようになってしまいます。それでは亡くなった方も、残った家族も心残りの状態が残ることがあり、後で後悔することが起こってしまうことがあります。そこで恭敬の会では、僧侶が依頼された方のお家に伺って、阿弥陀如来様にの絵像本尊の左右に、礼拝の対象となる亡くなった方の遺影が貼ら、法名、俗名が記入された「三つ折り本尊」を授与し、その前で丁寧にお勤めをして、その後に遺骨を預かって本坊にて納骨して、懇ろに供養をずっと行います。だから感謝の念を示すこともでき、亡くなった方も残ったご家族の方々も安心していただけ、感謝のお念仏wすることができます。これは親鸞聖人が我々にお念仏の教えを簡単にわかりやすいように説いてくださったおかなのです。

親鸞聖人

親鸞聖人は承安三年(西暦1173)四月一日に、藤原氏に一族である日野有範公と清和源氏の息女であった吉光如様の長男としてご誕生され、幼名を松若丸とむされました。四歳の時に父上の有範卿を、八歳の時に母上の吉光如様が亡くなられ、叔父の日野法綱今日の元で育たれ、世の無常を感じられておられたのですが九歳になられた春に、叔父様とともに粟田口の青蓮院に赴かれ、天台座主の慈鎮和尚(関白九條兼実公の弟で慈圓僧正)を戒師として得度されることになったのですが、夕刻になったので、慈鎮和尚が夜になるから得度は明日にしようと仰ったところ、松若丸様は「明日ありと思う心の あだザクラ 夜半に嵐の吹かぬものかは」と、歌を詠まれ、今を盛りに咲く桜の花も、夜に一人の嵐が吹いて散ってしまうこともあります、人の命は桜の花よりも儚いものかと覆います、明日と言わず今日のうちに得度していただけないでしょうか、という気持ちがこもっていて、それを聞かれた慈鎮和尚が九歳の子供がこれほどまでに無常について思っているのかと感動され、その夜のうちに得度式を執り行われたのです。

比叡山での修業の後に法然上人の元に赴かれ

九歳で得度され比叡山にのぼられ、横川の首楞厳院の常行堂の堂僧として天台宗の修行を二十年にわたって続けられたのですが、自力修行の限界を感じられるようになり、ご自分の中に疑問に思われていたこと、悩みについて解決することができずに、聖徳太子が建立された京都市中の六角堂に、毎日比叡山から通われ参籠され、九十五日目の朝に救世菩薩の化身である聖徳太子からの夢告を受けられ、「行者宿報設女犯 我なる玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう、そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせようという意味)続いて、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生に聞かしむべし」という告で、この夢告に従って夜明けとともに東山の吉水におられた法然上人のもとに行かれ百日の間通われ聴聞され弟子となられました。法然上人のもとで信が先か行が先かというお弟子の間の問答や、親鸞聖人(法然上人の門下では釋空とうい名前でした)と法然上人の信心と同じかとうう問答があったりして、法然上人から法然上人の御影(肖像画)を書写するのを許されるまでになられ、日本で初めて僧侶として正式に結婚されました。

流罪になられ

法然上人の説かれた全ての人々は念仏によって救われるという専修念仏の教えが庶民にも広がっていき、沢山の人々あが集まってくるようになると、それをよしとしない南都北嶺(奈良の興福寺と比叡山延暦寺)の僧徒たちが朝廷に訴え、朝廷はそれを受けて法然上人を土佐国に、親鸞聖人を越後に流罪とすることになりました。親鸞聖人は都をおでて琵琶湖を舟で渡られ、北辺の海津で源義仲の室の山吹御前徒その子の義隆、義順に教えを伝えられ、師弟の約諾をされ、後に義隆は海津で願慶寺を、義順は岩熊で蓮通寺を開創しました。親鸞聖人は越後で非僧非俗として暮らされ愚禿釋の鸞と名乗られました。建暦二年(西暦1212)岡崎中納言範光卿をつうじて順徳天皇よりの赦免の宣旨が出され他のですが、法然上人が遷化されたので赦免された後も越後にしばらく留まられ、それから信濃の善光寺をお参りされ関東に移られ、上野国の佐貫を経て常陸国に向かわれ、小島の草庵、大山の草庵、稲田の草庵に二十年間住まわれ、後に関東二十四輩と呼ばれるお弟子方が弟子になられ、その中には山伏で板敷山で親鸞聖人をお暗殺しようとしたのですが聖人にあって改心し、明法坊となった弁円や、主人の命令で熊野権現に詣で、‘後に親鸞聖人の教えを綴った「嘆異抄」を書いたと言われる河和田の唯円がおられます。聖人は関東で「顕浄土真実教行証文類」をはじめ数々の著述を撰述され、おん年六十三歳で京都に戻られました。

遷化

京都に戻られ、西洞院あたり等を転々とされた後、弘長二年(西暦1262)聖人の弟の尋有様お院主をされていた押小路南万里小路の東の善法院において遷化され、東山の延仁寺で荼毘にふせられ、鳥辺の北大谷の地に埋葬され、それが廟堂となり本願寺になっていきました。親鸞聖人が遷化されて三十三回忌に孫の覚如上人によって「報恩講私記」が撰述され、聖人の御命日の十一月二十八二日に報恩講が営まれるようになり、報恩講で「報恩講私記」と「嘆徳文」を読誦されるようになり、それが現在まで続く報恩講となりました。

まとめ

報恩講は、親鸞聖人の遺徳を讃えるのと、そのご恩に感謝するためのもので、それが恭敬の会もお供養の元間のです。恭敬の会のお供養は亡くなった方に対するご恩報謝をすることで、残された人たちも安心が生まれ、毎日の活力につtながっていくのです。だからただ郵パックで送るだけの送骨は、お靴を処理するだけの喪なのに対して、恭敬の会の訪問預コツは、報恩感謝の念が込められているのです。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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