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恭敬の会の送骨の供養と熊野

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2022.10.19

熊野

恭敬の会の送骨の供養の元となるお参りである熊野詣を体感するために熊野にいきました。蟻の熊野詣でと古来から言われて、上は天皇から下は庶民に至るまで沢山の人々が訪れてお参りをし、熊野詣に人々が通った道が「熊野古道」と呼ばれ世界遺産の登録され、世界中の人々も訪れるようになりました。

熊野とは

熊野は旧の国では紀伊の国の南部のあたりのことで、上古では熊野の国と言われていました。
「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の熊野三山を中心とする熊野信仰の地です。
熊野は紀伊の牟婁郡のことで、和歌山県の西牟婁郡、東牟婁郡、三重県の北牟婁郡、南牟婁郡の地域んことを指しています。紀州藩では熊野を和歌山から近い順に「口熊野」「奥熊野」と呼んでいました。
『日本書紀』神代紀の上には、火の神カグツチを伊邪那美命は酷い火傷を負って亡くなられ、紀伊の国の熊野の有馬村の花窟神社に葬られました。又、『古事記』の神武東征の段及び『日本書紀』磐余彦の東征の段によると、神日本磐余彦は兄とともに東方の遠征に出て、熊野の神邑に上陸され、熊野で怪しい熊の妖気に当たって気を失ってしまわれるのですが、天照大神から剣を得られ目覚められ、八咫烏の道案内で宇陀に入られ橿原の宮で神武天皇として即位されたのです。じょうこには熊野国があって、成務天皇の御代までに熊野国造が置かれる世になっていたのですが、大化の改新の後の孝徳天皇の御代に、紀伊の国の牟婁郡
として併合されました。

熊野信仰

熊野は、古来より山に籠ってって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来からの山岳信仰で、それを仏教に取り入れられた日本独特の宗教の修験道の修行の地とされていました。延喜式神名帳には「熊野坐神社」(熊野本宮大社)と熊野速玉大社が記載されているのですが、「熊野那智大社」の記載はなく、それは那智は神社でなく修行の場と見なされていたからと考えられているのです。平安時代の中頃の長久年間に『大日本国法華経験記』に、壱睿、義睿、明蓮、道命といった僧侶が熊野の山中で法華経にまつわる不思議な体験をいたことが記されていて、古くから極楽往生を願う僧侶にとっては熊野は霊場とされていました。平安時代の後期になり、浄土教である阿弥陀如来に対する信仰が末法思想とともに広がって、熊野は浄土とみなされるようになっていき、熊野は霊場であると同時に紀伊山地を挟んだ吉野とともに皇室の祖先の神話ゆかりに地でもあったことから関心がもたれたと思われます。上皇となられた宇陀院や花山院が熊野に詣でられたことから、上皇が熊野詣でをされるようになり、白河院からはより大規模になっていきました。熊野は霊場であるとともに神域としても整備され、王権守護に対する期待と浄土信仰と記紀の神話が融合された神仏集合の流れに合致していて、院政の頃は歴代の上皇が頻繁に熊野詣でをされ、後白河院は三十四回にも及びました。

熊野本宮大社

熊野本宮大社は、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、熊野坐大神(くまぬにますおおおかみ)、熊野加武呂の命(くまぬかむろのみこと)を主祭神として、崇神天皇の六十五年に現在っ大斎原(おおゆのはら)の地に創建され、本宮「第三殿(證証殿)には、家津美御子大神(別名 須佐之男命)本地仏は阿弥陀如来」、結宮「第一殿(西御前)には熊野牟須美大神、第二殿(中御前)には事解之男神、本地仏は千手観音」、第四殿(若宮)には、天照大神、本地仏は十一面観音」が御祭神として祀られてています。明治二十二年(西暦1889)十津川の大水害で神域が洪水に覆われたのですが、第一殿、第二殿、第三殿、第四殿は流出を免れて現在地に移されました。
熊野大神に仕える存在として「八咫烏」があり、神武天皇を大和も橿原まで導き道案内をしたことから、導きの神として信仰されていて、熊野のシンボルとなっています。

熊野那智大社

熊野那智大社は、熊野夫須美大神を主祭神として、『熊野略記』では仁徳天皇の御代に鎮座したと伝えられていて、山中の那智の滝を神聖視する原始的な信仰から始まっているので、本宮大社、速玉大社とは違って社殿が創建されたのは後になってからです。那智山は平安時代の末期に組織されたと考えられ、現在の青岸渡寺(如意輪堂)と一体で神仏習合で修験者の霊場となっていきました。西国三十三箇所観音霊場の一番目で、沢山の人が法被を着てお参りされています。
那智の滝は、落差133mで一つの滝としては日本一で、華厳の滝、袋田の滝とともに日本三名瀑に数えられています。

熊野速玉大社

那智速玉大社は、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としていて、熊野速玉大臣は伊邪那岐命とされていて、熊野夫須美大神は伊邪那美命とされています。景行天皇の御代五十八年に現在の地に遷座して、速玉之男神からし社名をとったといわれ、元々祀られていた所んお神倉山は神倉神社となり、元宮と呼ぼれ、こちらの方は新宮と呼ばれるようになり、それが現在の市に名前にもなっています。

まとめ

熊野神社は、浄土真宗にも深いご縁があり、親鸞聖人の『御伝鈔』の「下巻」の五巻に、常陸国の平太郎という親鸞聖人のおですが、領主の命で熊野に詣でなくてはならないことになり、京都にお帰りの聖人に教えに背くことにならないか相談し、聖人は自分で志していくのではく、主の命だから従うの穂が良い、しかし忌みごとの参拝をしないように、と答えられ、平太郎はそれに従って忌みごとをせずに参拝したところ、夜になって平太郎の夢に熊野権現が、證証殿の扉を押し開いて現れられ、平太郎にこの権現を軽んじて忌みごとをせずに参ったか、叱られたところ、そこに親鸞聖人が荒荒れられ、この平太郎は親鸞の弟子で、念仏する門です、と権現に仰って権現は衣冠を正して敬意屈の礼を表された、といいう夢で、それを京都で親鸞聖人に報告したところ、承認はそうだそのことだと話されたということで、神様は敬うべきなのだが、穢れを気にし斎戒沐浴したり、そおような作法に流されることはしないということを示しているのです。「恭敬の会」は、以前によく行われていた、葬儀の後の清めの塩で身を清めたり、故人が使っていた茶碗を割ったりすることはしないよいうに、今流行りの生の花を棺に入れて、生き物を道連れにして焼き殺す、葬儀に華やかな色とりどりの花を祭壇としてか猿のは、人が亡くなるのを準備してまつことになるので、そのようなことはなるべくしないようにお伝えしています。
それと葬儀が華美にならないように、しかし丁寧にお勤めし供養をおこなってから、お骨を収めるように、僧侶がお伺いし、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与市、その前で丁寧にお勤め市、お骨を預かっって納骨します。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、まじないやもの忌をせずにお供養を丁寧に行います。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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