Blog ブログ

明治

ブログ

2022.09.08

明治について

今日は、二十四節気の一つの「白露」の日で、大気が少しずつですが冷えていき、夜間の気温が下がっていき、朝日の陽光の当たり方によっては露が白く見えることから、白露と言われます。
それとともに、九月八日は元号が「明治」に改元された日です。
慶応三年(西暦1868)一月九日に「睦仁親王」が「践祚」され、翌年の慶応四年九月八日に元号を「明治」と改元されました。

明治という元号は

「明治」とは、「聖人南面して天下を聴き、明にむかひて治む」という、中国の『易業』という書物の中に記載されている言葉から採用され、「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味なのです。これ以降は天皇陛下が一代のうちは一つの元号を用いるという「一世一元」になりました。

明治になる背景

明治天皇が践祚された頃は幕末で、孝明天皇の治世下の嘉永六年(西暦1853)六月三日にアメリカ合衆国のペリー提督が率いる艦隊が浦賀に来航し、それまで鎖国で中国とオランダしか通商していなかったのを、アメリカが開国を求めてくるようになり、日本の国内の世論はかつてないほどの乱れ方となり、それまでは幕府の独断で何もかも決めていたのが、外様の有力諸侯や朝廷から意見を聴き、それによって決めるというものに変化していたのです。それは幕府の力が弱体化して行ったことかと思われます。
嘉永六年六月三日、ペリー艦隊が浦賀に来航し、アメリカ大統領の国書をもたらし、江戸幕府は老中首座の阿部正弘は、海防参与の水戸徳川家の徳川斉昭や、越前福井藩の松平慶永、薩摩お島津斉彬らに意見を求めました。そのような中、将軍に徳川家慶が死去し、世継ぎの家定が十三代将軍に就任しました。
翌年の嘉永七年ん二月十三日、ペリー艦隊が再び来航し、三月三日に「日米和親条約」が締結され、「鎖国」は終了しました。これについては孝明天皇の勅許を得られたのですが、改元され後のた安政三年にアメリカ公使のハリスが通商条約の締結を幕府に迫り、幕府は通商条約締結は不可避と判断し、交渉を開始し合意したのです。しかしこれは孝明天皇の勅許は得られてなく、これが後の騒乱の元にもなったと言われています。
江戸幕府はアメリカと通商条約をの合意を行い、朝廷をはじめ攘夷を主張する人々の反発を招きました。安政五年彦根藩主の井伊直弼が大老となり、将軍家定の後継が紀州藩の慶福がなり、家茂となって十四代将軍となり、を六月十九日に「日米修好通商条約」に調印し、いよいよ幕府と朝廷の仲が険悪となり、安政の大獄がの後、大老井伊直弼が暗殺され、公武合体の機運が高まっていくのですが、将軍家茂が死去し、一橋慶喜が十五代将軍となるのですが、薩摩、長州の力が大きくなり、その最中に孝明天皇が崩御され、睦仁親王が践祚され、慶喜は鳥慶応三年十月十四日に「大政奉還」をおこない、江戸幕府の政治体制が終わりを告げたのでした。

明治になって

徳川慶喜が大政奉還をおこない、朝廷は「王政復古の大号令」を宣言し、明治の政治が始まりました。その後鳥羽伏見の戦いで朝敵たされてしまい敗れた旧幕府軍は江戸に撤退し、薩長を中心とした明治新政府軍は錦の御旗のもとに東に軍勢を進め、江戸城を無血開城させ、それ以降戊辰戦争と呼ばれる幕府大勢の名残の内乱を経て、江戸が東京となり、江戸城が宮城となり東京に明治天皇がお住まいになることになりました。薩長を中心とした明治政府は中央集権となるように廃藩置県を行い、氏族の武力独占を破るため徴兵制を行い、律令制度の行政機構を復活させ、大蔵省、民部省、宮内省、外務省、士族の反乱を西南戦争で鎮めて、それから西洋の文化を取り入れて文明開花と呼ばれるようになり、脱亜入欧を目指し洋服を着るようになって、鉄道が先ず新橋、横浜間に敷設され、それが徐々に日本各地に敷設されていき、国内に網の目のように広がり、国民の交通は便利になりました。殖産振興にも力を入れ群馬県の富岡に官営の製糸工場が開設され、工業にも力を注ぎ九州の八幡には大規模な製鉄所も開設し、我が国で製鉄ができるようになっていき、富国強兵が進められていきました。反面、国家神道を進めようとして「神仏分離」を行い「廃仏毀釈」と言われる間違いも行われてしまい、貴重な文化が失われてしまうこともありました。また政治においては、自由民権運動などが盛んになって、ドイツのプロイセン憲法を模倣したと重おわれる『大日本帝国憲法』が制定され、それが施行され(現在の日本国憲法は大日本帝国憲法を改正したという形になってます)、貴族院と衆議院の二院制による帝国議会も開設され法治国家としての歩みをはじめ、近代化が強くおし進められていき国力がいよいよ高まっていき、不平等条約を改正し、日英同盟を結んで日清、日露の戦争に勝利して、ついに西欧列強の仲間入りを果たすことになりました。





まとめ

明治という時代は、それまで二百六十年にわたって平穏無事だけれど、発展することがない鎖国の中だで寝ているようだった日本が、目覚めさせられ、たった四十五年という期間で、目まぐるしい変化をし、西欧の植民地にされることなく発展して、西欧列強と肩を並べるまでになって、廃仏毀釈というとんでもない間違いもありましたが、現在の日本の政治、経済、社会をの元となった時代といえます。現在は明治ほどとは申しませんが、変化の時代で、それまでの価値観や大切にすることが、変化して自分中心、その時だけとなってきているといえます。これでは次世代に残す、受け伝えて行く子とが疎かになってしまう恐れがあるのではないでしょうか。
「恭敬の会」は、疎かにならないよう、昔のように大層なことをしなくても、亡くなった方や先祖を大切にしていける方法を行うようにしたのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、負担が少なく、煩わしいことがないけれど、厚い想いを伝えていけるのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

この記事をシェアする