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木之本地蔵縁日

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2022.08.24

木之本地蔵縁日

毎年、八月二十二日から二十五日まで、長浜市木之本町で地蔵縁日が行われ、湖北地域の夏の風物詩となってます。
子供の頃の夏の楽しみは、学校が夏休みに入ってすぐの、塩津中の「かわそ祭り」、そして、締め括りが木之本の地蔵縁日で、これが終わると夏休みもおしまいで、宿題の仕上げと、自由研究の点検とをして九月一日からの二学期に備えるので、なんだかいつも裏淋しいような感じをいだいてました。

木之本地蔵

木之本地蔵は、木之本地蔵院とも言って、正式には「浄信寺」という時宗のお寺です。本尊は地蔵菩薩で本堂の中のお厨子におられ秘仏となっています。境内に秘仏の本尊の写しである高さ6メートルの地蔵菩薩の大きな銅像があって、日本三大地蔵尊の一つとされていて、眼の病気等にご利益があるとして、全国から参拝者が来られています。

浄信寺の由緒

天武天皇の時代に、難波津に金光を放つ地蔵菩薩が漂着して、これを祀った金光寺を難波に建てたのが始まりで、その地蔵尊が木之本に移る経緯については2つの説があります。
奈良時代に地蔵尊の像を緑が豊かな地に奉安せよとの聖武天皇の勅命を受けた、薬師寺の僧の祚蓮上人が、奈良から北国街道を下って行き、休憩のために地蔵尊を柳の木の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったので、柳の木の地を奉安する場所として定めて、柳本山金光善寺として一宇を建立し、この地を「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、それが「木之本」となったという説と。
文武天皇が北陸の白山を参拝する途中、木本の地で紫の雲を見て、ここが霊験あらたかなな地だと感じられ、難波の金光寺を木之本に移したという説があります。
弘仁三年(西暦812)空海が巡錫して堂宇を補修し、地蔵経を書写して奉納したという伝承もあり、昌泰元年(西暦898)に醍醐天皇の勅旨で菅原道真が参詣して、長祈山浄信寺と寺号を改められたようです。
建武二年(西暦1335)に、足利尊氏は、毎年八月に使者を遣わして法会を行うこととし、それが現在でも続いていて、尊氏は暦応元年(西暦1338)に田んぼ百石を浄信寺に寄進しています。
時代が下り、安土桃山時代の羽柴秀吉と柴田勝家が戦って、秀吉が勝ち天下を手中にした「賤ヶ岳の戦」では、羽柴秀吉の本陣が置かれ、この戦いによって堂宇を消失し、慶長六年(西暦1601)豊臣秀頼の命を受け片桐且元が堂宇を再建しました。元文四年(西暦1739)再び堂宇を消失し、現在の本どうが宝暦年間(西暦1751〜1764)に僧仁山が勧進して再建されました。

木之本

木之本の名前の由来は、柳の本が木之本なったということですが、木之本は地蔵院の門前町であり、また北国街道の宿場町でもあったにです。そこでは馬の市が室町時代から昭和の初めまで行われていて何百頭もの馬や牛が集まって(現在はありませんが)、そこで山内一豊の妻の千代が、主人の一豊が織田家の中での馬揃い(戦の前に馬を一堂に集めて、その検分をするもの)で、へそくりとして貯めておいた金銭で、名馬を購入し、織田信長はそれを見て一豊に目をかけるようになって、出世したという内助の功の逸話がの残っています。その馬市も年二回行われていたようで、ひょっとしたら地蔵さんの縁日に合わせていたかもしれません。

地蔵縁日

地蔵さんおの縁日は八月二十二日から二十五日にかけて行われ、沢山のお参りのとでごったがえします。本堂の戒壇巡り(善光寺あ有名ですが、本堂の床下を巡ってお参りするもので、暗い中を巡るのです)をする人、お札を授与される人、秘仏を写した6メートルの地蔵さんの銅像の足下に登ってお参りされる人など、沢山の人だかりになり、昔は境内の曲芸の小屋もありました。

露店が沢山

地蔵縁日には、沢山の露店がひしめき合って出店され、木ノ本駅から東に向いての地蔵坂豊ばれる300メートルの坂道と、それの突き当たりが地蔵院でその左右600メートルくらいの北国街道沿いがいっぱいになり、こんなに沢山の露天商の人たちがいろいろなところから集まってきてくださり、北國街道の地蔵院の石垣沿いには陶器の露店も並日ます、それが湖北地域の人々の楽しみとなっていて、この時期に合わせて里帰りされる方もおられ、大変な賑わいとなります。下旬と言っても八月ですから、暑い日中よりも涼しくなる夕方からのほうが人出が多く、必ずと言っていいほど若い頃からの知り合いにも会い、それで久しぶりと挨拶して、昔話の花も咲きます。年月がすぎると、自分が楽しむのがつれていく子供たちが楽しむのになり、子供たちが大きくなると、また自分が楽しむのになり、今は保護司としての見回り役もあり、尚更、人と会うことが多くなりました。
また、最終日の二十五日の夜には、花火大会も催され、それが地蔵縁日のフィナーレとなります。

コロナウイルス蔓延の影響で

昨年、一昨年とコロナウルス蔓延によって、地蔵院のお勤めは規模を縮小して行われましたが、人々が楽しみにしている露店の出店とイベント、花火大会が中止となってしまい、戦時中を除いてこんなっことは初めてということになりましたが、今年は法要も、通常通りに行われ、露店も依然と同じように出店さr、イベントも行われ、花火大会も開催されることになり、地域の皆さんも安堵するのと、喜んでおられます。

まとめ

これまで、夏休みのしめくくり的な行事として行われて、ずっと続いてきたものが行われないというのは、地域の人々も誰も想像できなかったことで、前代未聞のことが起こったと皆さんが感じられたことですが、今年は無事行われるのと、どれだけ地域に根を下ろしていたことかがわかり、これからも大切に守られ、より盛大にして続けていかれると思われています。地域の行事だけでなく、身の回りのことでも言えます。コロナをきっかけにしてやめてしまったことや、コロナでなく、人が減ったとかを理由にして、続いてきたことをやめてしまうのではなく、どうしたら続けられるかを考えなくてはなりません。これは亡くなった方や先祖方に対することも同じで、できるだけ負担が少なく、でも丁寧に大事に行うということを、それが「恭敬の会」の趣旨であるのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養はより広い人々のためにあります。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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