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東海道新幹線

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2022.10.02

東海道新幹線

昭和三十九年十月一日、東海道新幹線が開業しました。
東海道新幹線は、東京から大阪を結ぶ日本の大動脈の東海道本線が線路容量が逼迫していて、輸送力を増強するために東海道本線の別線として計画され、戦前に計画されて一部用地買収が行われていた弾丸鉄道計画の用地を利用して建設された、それまでの狭軌から国際標準軌で敷設され、新たな列車も作成しされた、世界で初めての高速鉄道です。

東海道新幹線とは

日本は戦後になり、経済成長が著しくなり、昭和三十年代になると、東京、大阪を結ぶ東海道本線の線路の容量が、旅客も貨物も一杯になり逼迫していき、これを抜本的に輸送力を増強しなくてはならない必要性に迫られていました。そこで東海道線を増設し複々線にする。別に軌道を狭軌で敷設する。別に軌道を広軌(標準軌)で敷設するの三つの案が出され、将来の発展性を考えて別に標準軌の線路を敷設し、列車も新しく動力分散式の電車方式の線とすることになりました。それは戦前の弾丸列車計画を実現しようとしたものでした。それで新幹線は以前の駅の案内にはNew Toukaidou Line と表示され、東海道線の別線という扱いでした。

経緯、昭和三十二年まで

日本の鉄道は、明治時代に導入されるとき、日本の国土の特徴である平地が少なく山が多いので、費用の面からとイギリスの勧めによって軌間を狭軌で採用し、それによって規格が低いのと地形的な事情で、勾配や曲線が多いといった制約があって、欧米のような高速運転とは無縁と言える状態でした。そこで広軌(標準軌)に改軌する提案も何度も出されてはいたのですが、実現せずにいました。
日本の鉄道の高速化は、戦前の満洲(現在の中国法北部)を縦断する南満州鉄道が初めで、標準軌の軌道を蒸気機関車の牽引で最高速度120kmで日本の内地は95kmだったので、遥かに速いスピードでした。これが後の弾丸列車計画に続いていくのです。昭和十年代になると満州事変や日支事変の激化などで、日本から中国や満洲へ向かう各種の物資輸送の需要が激増し、東海道線、山陽線の輸送量も増大し、これによって「弾丸列車計画」が立てられ、東京から下関まで東海道線、山陽線とは別に1435の国際標準軌を新線を敷設し、最高速度200kmで東京、下関間を9時間で結ぶことを目指したもので、昭和十五年(西暦1940)に承認されて建設工事が始められ、日本坂トンネル、新丹那トンネル、東山トンネルの工事が着工されましたが、線局が悪化し中断しました。(これが後の新幹線に利用され、土地の買収も戦時中ということで半強制的な形だったので、相当な区間が用地確保されておりました)。戦後の混乱機を過ぎて昭和二十五年(西暦1950)の朝鮮戦争以降に本格的に復興して、鉄道も輸送の需要が高まっていきました。昭和三十年(西暦1955)に国鉄の総裁に就任した十河信二は、島秀雄を国鉄技師長にして、その後の新幹線計画を推進することにしました。日本は平地が少なく山が多く坂が多く曲線が多いので、機関車が牽引する動力集中方式より、電車のように動力を編成の車両に分散させる動力分散方式のほうが適していて、昭和二十八年(西暦1953)以降電車の高性能化が始まって、昭和三十二年(西暦1957)にモハ90系(後の101系)ができて、これ以降の電車のもととなりました。

経緯昭和三十に以降

昭和三十三年(1958)、モハ90系の技術を応用して東海道本線の特急「こだま」用にモハ20系(後の151系)が開発され、最高速度163kmを記録しました。
昭和三十年(西暦1955)から、国鉄は交流電化方式の実用化に取り組み、昭和三十二年(西暦1957)北陸本線が交流電化され、これを皮切りにして地方線区の交流電化が開始され、これが東海道新幹線にも採用されることになりました。
同年、国鉄は東海道本線の輸送力飽和はほぼ限界に達しているとして、現在線とは別に線ろ増設が必要となって、現在線を複々線にする。別線の狭軌新線を敷設する。別線の標準軌新線を敷設する。の三つの案が示され、将来のことを考慮して別のルートで標準軌の新線を敷設することになりました。これは戦前の弾丸列車計画を改めて実現しようとするもので、東京都大阪を3時間で結ぶというものでした。当時、欧米では航空機っと高速道路による高速輸送が有望視されていて、新幹線計画は戦艦大和、万里の長城、ピラミッドと並ぶ愚策だと言う者も沢山いたのですが、十河総裁と島技師長は新幹線の実現に向けて努力し、昭和三十四年(西暦1959)四月二十日に起工式が行われ、建設が始まり、昭和三十六年(西暦1961)世界銀行から8000万ドルの融資を受け、国家的プロジェクトとなり、昭和三十七年(西暦19620には神奈川県にモデル線区が先行して整備され、試作電車のテストを繰り返し、量産型の新幹線電車を開発し、昭和三十九年(西暦1964)十月一日東京オリンピックに開催に合わせて東海道新幹線が開業しました。当初の最高速度は200kmで、東京、新大阪間を4時間で結び、路盤が安定を見計らって3時間10分になりました。

まとめ

東海道新幹線は開業以来五十八年に渡り、鉄道側が原因となる死亡事故は一度も無く、安全で便利な交通手段として、日本ではなくてはならないものです。東海道に続いて山陽、東北、上越と建設され、今では北海道から鹿児島まで新幹線が繋がるようになりました。これからも益々その役目は大きいくなることでしょう。この新幹線をピラミッド、戦艦大和、万里の長城と並ぶ三大馬鹿と言われ、そのまま計画をやめて入れば今日のような日本の発展もしてなかったかもしれません。それから言えば先見の明があったと言えます。「恭敬の会」は、これまでのような供養ができにくくなっている状況になりつつある中、これからのより良いお供養を目指し、不安が少なく、煩わしい事がなく、しかし丁寧にお供養できるように、僧侶がお伺いし、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めし、お骨を預かって納骨するのです。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、先見のめいがあったと言われるようになっていけると思うのです。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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