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水葵

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2022.10.03

水葵について

蓮通寺のある長浜市西浅井町岩熊で、「水葵」(ミズアオイ)が綺麗に咲いています。これは蓮通寺の門徒さんが休耕田を利用して栽培されていて、奥琵琶湖パークウェイを通って降りてきた車や、以前新聞に載ったことがあるので、この季節になると鑑賞に来られる方がおられ、我々も通りすがりには眺めて目を楽しませてもらってます。
水葵は、飛鳥時代から奈良時代にかけての古代では、「菜葱」(ナギ)、「小
菜葱」(コナギ)、「水菜葱」(ミズナギ)と呼ばれていて万葉集にも詠まれていました。それが江戸時代になってから葵に似ているとして「水葵」と呼ばれるようになったようです。

水葵の生態

水葵(ミズアオイ)は、ミズアオイ科ミズアオイ属の植物で、菜葱(ナギ)やミズナギという別名があります。
川や池などの淡水に生える根が水中にあって、茎や葉を伸ばして水面上にでて、根元が水に浸るところに生育する植物で、水位が上がる時以外はほとんど水に浸かることがなく、根が水面下にあるので、根への通気の仕組みや、呼吸根を持つものがあるという特徴がある一年くさの抽水植物で、茎は横に這っていく根茎となって真っ直ぐに伸びずに斜めに上がっていき、葉が束生します。葉身は心形で長さは5センチから20センチで、上部は鋭い頭となっていて、縁は全縁で、質は厚く光沢があります。葉柄は長さ10センチから50センチとなり、葉身と茎をつなぐ葉柄の下部につく葉柄は長さが短く5センチから20センチです。
花の時期は八月から十月で、花茎は高さが30センチから70センチになって、葉より高く伸びて、十個から三十個くらいの花をつけます。花は一日花で、花序内に数花ずつ咲きます。花被片は六個あって、片は楕円形で長さが15センチから20センチ、内花被片の三片がやや幅が広くて、色目は青紫色で、雄蕊は六個あって、その内五個の葯は黄色で小型となっていて、残りの一個の葯は紫色で大型になります。子房は上位に三室で、胚珠は沢山あって中軸胎座につき、柱頭の先端は頭状になります。果実は卵状の長楕円形の蒴果となって、長さは約10センチくらいで先っぽに角状の花柱が残ります。熟していくと花茎が下に垂れて、種子は長さが1ミリから1、5ミリの楕円の球形で、縦に十本以上の稜があります。

水葵の分布

国内では、北海道、本州、四国、九州に広く分布して、湖沼や水田、水路などに生育していて、国外では東アジアに分布しています。
以前は水田の雑草としてよく見かけられたのですが、河川改修、水路の改修や田んぼの除草剤が使われるようになって、生育する環境が悪くなり、減少しています。それが近年になってスルホニルウレア系の除草剤に対しって抵抗性を持った水葵やあぜな類が全国的に増加している傾向にあります。
東日本大震災の津波で被害を被った沿岸の地域では、地盤沈下や浸食などで、整備された農地だった土地に池や湿地が出現してきて、生育する環境が悪くなって減少していった植物が増えているということも報告されていて、福島県、宮城県、岩手県の三県では水葵が復活した場所が四十ヶ所にも及んでいます。

「万葉集」のなかに詠まれた水葵

「万葉集」には、水葵を読んだ歌が四種あります。
「巻十五」「三五七六」には、「苗代の 小水葱が花を 衣に摺り なるままにまに あぜかかなしけ」と詠まれ、苗代に生えて咲くミズナギの花を 着物に摺りつけついたら 体に馴染めば馴染むにつれて どうしていとおしくなるのだろう。という内容です。
「巻十四」「三四一五」には、「上毛野 伊香保の沼に 植ゑ小水葱 かく恋 ひむとや 種求めけむ」と詠まれ、上毛の伊香保の沼に、私が植えた水葱なのに、その美しさに心をいためることになろうとは、という内容です。
「巻三」「四百七」大伴宿禰駿河麿には、「春霞 春日の里の 植子葱 苗なりといひし 枝はさしにけむ」と詠まれ、春日の里に植えた水葱は まだ苗だということであったが、今は枝ものびて食べられるようになったでしょうね、という内容です。
「巻十」「三八ニ九」長忌寸意吉麻呂には、「醤酢に 蒜樢き合とて 鯛願ふ 我にな見えぞ 水葱の羹」と詠まれていて、ひしおすにノビルを和えた物と 鯛を食べたい私に水葱の吸い物なんか見せつけてくれるなよ、という内容です。
巻十四の三五七六は、女性を弄ぶ男の勝手な心情を詠んだもので、巻十四の三四一五は、女性への恋心を詠んだもので、巻三の四百七の大伴宿禰駿河麿のは、求愛の歌え、巻十六の三八ニ九の長忌寸意吉麻呂のは、食べ物についての主張を詠んだものです。

 

まとめ

水葵は水葱、小水葱と呼ばれた万葉の頃から親しまれていた花で、暮らしに溶け込んでいたのですが、戦後になって除草剤などの影響で激減して、それを憂いた蓮通寺の門徒さんが頑張って栽培をされ、休耕田一枚全体に育って毎年綺麗に咲くようになりました。これは古来から親しまれてきたものを守って残し伝えていこうという心で、それは自分一人のためというのではないのです。今の尺度で推しはかってこれは要らない、廃れても構わない、自分にとって利益にならないということが多く、増えている中、貴重で大切なことで、広めていかねばならないと思意私達も応援していきます。このことは花を愛でる、自然を愛でることだけでなく、先祖方が大切にしてこられた事も同じで、「恭敬の会」は、大切に守り伝えられてきたこととして、亡くなった方々へのお悔やみ悼むことについて、負担を減らし、煩わしいことが無いようにして今の時節に相応するお供養は何かということを考え、始めたことなのです。
恭敬の会の送骨 訪問預骨 永代経、永代供養は時期相応ながら、先達が守ってきてくださったことを守っていけるのです。

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