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浅井長政

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2022.09.05

浅井長政について

先日、浅井長政(あざいながまさ)の法要が、浅井家の菩提寺である徳勝寺(現在は長浜市枚方町)で執り行われました。浅井は「あざい」と読むのが正しくて、以前はテレビなんかでも「あさい」と呼んだりして、小谷城(おだにじょう)も「こたに」や「おたに」と呼ばれていましたが、地元による再三の運動が実って正しい読み方をするようになりました。

浅井氏の歴史

浅井長政の浅井氏は、近江国浅井郡の豪族で、近江の在地郡司の公家の庶子が入婿となったという説があって、浅井氏の祖である重政が藤原北家閑院流正親町三条家におお一門の正親町三条公綱の落胤だという伝承のもととなっています。実際は古代から物部守屋流を称した在地の豪族で、宇多源氏佐々木氏の京極氏(佐々木氏が六角氏と京極氏に分かれ、近江に北半国を京極氏が領有した)の譜代の家臣として、京極家中で中堅の位置で、『江北記』に、今井氏、河毛氏、赤尾氏、安養寺氏、三田村氏などとともに根本被官として記せられていて、小谷城が居城です。
四代目の亮政の時に、京極家の中で文明二年(西暦1470)から永正二年(西暦1505)までの三十四年にわたりお家騒動が起こり、京極家が領有する北近江では有力な豪族会ある浅見氏を盟主とした国人衆による京極家の家政体制が布かれ他のですが、専制をし始めた浅見氏を追放して、京極氏は浅井氏の傀儡として、京極家の有力が家臣たちも取り込んでいき戦国大名となっていきました。
その後、南近江を領有する六角氏と対立して、越前の朝倉氏と同盟を結んでいき、北近江の戦国大名としての地位を確定しました。
小谷城には、本丸よりも高い所に「京極丸」という曲輪があって、京極氏を立てる姿勢はありました。

長政に代になって

浅井長政は、天文十四年(西暦1545)、浅井氏五代目の久政の長男として、六氏の居城である観音寺城下(近江八幡市安土町)で生まれました。
それは、浅井氏が六角との争いに敗れて、六角氏に臣従していて、長政は生母の小野殿とともに人質となっていたことを表しています。その後久政はなんとか北近江を維持して、長政が元服した際、六角氏と主従関係だといことを表明させるために六角氏当主の義賢の一字をもらって賢政と名乗らせたのですが、永禄三年(西暦1560)野良田の戦いで六角氏を破り、名前を長政に変え、久政に不満を持っていた浅井家家臣たちによって久政が隠居させられ、浅井家当主となりました。永禄六年(西暦1563)、六角氏の筆頭家老の後藤賢豊が殺害され、六角氏の家中に騒動が起こり、長政が美濃の国に遠征している隙に六角氏が戦を仕掛けてそれを撃破氏、領有を安定させたのです。
永禄十年(西暦1567)織田信長の妹の市と婚姻して、織田信長と同盟を結んだのです。
夫婦仲は睦まじく、一男三女をもうけ、長女の茶々は後に豊臣秀吉の側室となり、秀頼を産み、次女の初は主家である京極家に嫁ぎ、三女の江は徳川秀忠の正室となり、後の三代諸軍の家光を産みました。

浅井長政の滅亡

織田、浅井の同盟によって、織田信長は上洛する道が開け、永禄十一年(西暦1568)、越前の朝倉氏を頼っていた足利義昭は、朝倉氏に見切りをつけ織田信長に身を寄せ、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭は室町幕府の御所があった近くの二条に白を建設してもらい十五代将軍となってたのですが、自分で政治をしようとして信長と合わず、対立するようになっていき、各地の大名に手紙を出し信長に対抗するようになったのですが、敗れて後に鞆の浦に追放されることになりました。
信長上洛に少なからず援護をしたことで、信長からの信頼は厚かったのですが、
信長は元亀元年(西暦1570)、織田信長は越前の朝倉義景を攻めかけ、越前敦賀に金ヶ崎まで進んだところで、浅井長政は先代から同盟関係だった朝倉氏に遠慮したのか信長との同盟を破り突如裏切って、信長は最初長政の裏切りを信じられなかったのですが、本当だということがわかって信長は窮地に陥ったのですが、後に「金ヶ崎ののけ口」として有名になる木下秀吉の働きで窮地を脱し京都に逃げることができました。これ以降信長とは対立することになり、同じ年も六月に浅井長政は朝倉義景と姉川で戦うのですが敗れ、その後信長は比叡山を焼き討ちにし、こう着状態だったのだが、元亀三年(西暦1572)甲斐の武田信玄が足利義昭の要請に応じて上洛の途につき信長包囲網を形成して、三方原で徳川家康の軍勢を破り、家康の領内に野田しろを落としたところで、信玄が突如死亡してしまったので、武田に軍勢は甲斐に戻ってしまい信長包囲網が崩れ、天正元年(西暦1573)信長は大軍勢を越前に向け、朝倉義景を滅ぼし、取って返して小谷城を攻めかけ、木下秀吉を使わせて降伏を勧めたが長政は受け入れず、八月二十七日父の久政が自害し、九月一日長政も自害し二十九歳の生涯を閉じ浅井氏は滅びたのです。

まとめ

浅井家は小谷城落城の後、嗣子の万福丸も捕えられ殺されてしまい、滅びてしまいましたが、長政の女子は生き延びて、京極家として、また徳川家として血筋を伝えてい流のです。
また、浅井長政は湖北では今でも慕われていて、小谷城落城後に羽柴秀吉が造営した今浜を改めた長浜の平方に移された徳勝寺では、四百年にわたって法要が営まれ、慕っている人々が沢山参詣しているのです。それは、浅井家が湖北で善政をしていたからでしょうし、それを御恩を感謝している人々が伝えているのです。
四百年以上経っても、善いことをしておくと感謝の念は伝わっていくのです。「恭敬の会」は、煩わしいこともなく負担も少ないのですが、亡くなった方や先祖を大事にするという善いことを広く人々に行なっていただきたいと思いから始められました。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、皆様の善い心を起こす元です。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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