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狩野派について

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2022.09.14

狩野派について

今日は、天正十八年(西暦1590)九月十四日に亡くなった、狩野派を一躍有名にした「狩野永徳」の命日です。
狩野派とは、日本の絵画市場で最大の画派で、室町時代の中期から江戸時代の末期まで四百年にわたって日本の画壇の中心にあって専門画家の集団です。
室町幕府の御用絵師地なった狩野正信を始祖として、その子孫達は織田信長や、豊臣秀吉、徳川家康らに絵師として仕えて、常に画壇の中心として、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面に至るまでのあらゆる分野の絵画の職業画家集団として、日本美術界に多大なる影響を及ぼしたのです。

狩野派の概要

狩野派は、親、兄弟などの血族関係を主軸とした画家の集団で、約四百年にわたって日本の画壇に君臨しました。
狩野派の代表的な絵師としては、室町八代目将軍の足利義政に仕えた、初代の狩野正信、とそのこの狩野元信、その元信の孫で織田信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城、聚楽第、伏見城の障壁画を描いた狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移転して、江戸城、二条城、などの障壁画を制作した狩野探幽、京都に留まって「京狩野」と呼ばれた一派の代表となった狩野山楽らが挙げられます。
江戸幕府の体制が安定していき、狩野派は幕府の御用絵師の集団として、内裏、や城郭の障壁画の大量の注文をこなさなくてはならなくなって、膨大な数の障壁画の注文に応えるべく、狩野派の当主は一門の絵師を率いて集団で制作しなくてはならない必要があり、狩野派の絵師には、絵師個人の個性を表現するのではなく、先祖から伝来した絵の手本絵ある「粉本」や筆法を忠実に学ぶことが求められるようになっていき、こうしたことにより狩野探幽以降の狩野派は、伝統の維持と御用絵師としての勢力を保つことに力を注ぐようになり、気術的創造性を失っていったという見方もあります。

狩野派の代々

狩野派の袖ある「狩野正信」は、上総国の出身で当時としては異常なくらいの長寿で九十七歳まで生きたようです。記録として残っている正信が描いた事例は、応仁の乱の直前に寛正四年(西暦1463)、正信が三十歳の時に相国寺の塔頭の雲頂院で観音と羅漢図の壁画を描いています。文明十四年(西暦1490)大御所となっていた足利義政が東山殿の造営を開始し、正信は障壁画を描くことになりました。その後幕府の実権を握っていた細川家に使えるようになり、後の狩野派の隆盛の元を作りました。
「狩野元信」は、文明八年(西暦1476)に正信の長男として生まれ、現存する代表作は大徳寺大山院の方丈の障壁画で、「檀那の間」の水墨を基調としながらら草花や鳥の部分に濃彩色を用いて新しい感覚を示した「四季花鳥図」と、典型的は水墨画の「衣鉢の間」の「禅宗祖師図」です。元信は足利将軍や細川家との結びつきを強めて、沢山の門弟を抱え画家の集団として狩野派の基盤を確かなものとしました。それとともに公家や自社との関係も持って、大坂の石山本願寺の障壁画を描いたことも記録に残っています。元信は父の正信が得意とした漢画、水墨画に大和絵の画法お取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とsて、狩野派の様式の基礎を作りました。また初動の楷書、行書、草書に倣って絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立しました。
「狩野直信」、元信には三人の男子がいたのですが、三男の直信が跡を継ぎ、道名である「狩野松栄」の名で知られていて、代表作としては大徳寺の「涅槃図」があります。
「狩野永徳」は、直信の長男で、天文十二年(西暦1543)に生まれました。安土桃山時代を代表する絵師で、織田信長に仕えその居城の安土城の障壁画を描き、信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、大坂城、聚楽第、伏見城の障壁画を描いたのですが、それらは全て消失したしまい大変残念なことです。また、永徳が信長の命を受けて描いた安土城を描いた屏風がローマ教皇に進呈されたという記録があり、是非とも発見されることを願います。
現存する永徳の作品推しては、大徳寺聚光院の方丈の壁画があり、花鳥ずは特に評判が高く、また旧御物の「唐獅子屏風」上杉家に伝来する「洛中洛外図屏風」の二つは特に有名で、東京国立博物館所蔵の「檜図屏風」も有名です。
「狩野光信、孝信」は、永徳の長男と次男で、二人が跡を継いだのです。
光信は園城寺勧学院客殿の障壁画を描き、永徳とは対照的な大和絵風の繊細な画風を特色としています。
「狩野探幽」は、孝信の長男で、守信という名前だったのが後に出家した探幽斎と称したことから狩野探幽の名前が知られうようになりました。
慶長十七年(西暦16120十一斎の時に駿府で徳川家康と対面して、元和七年(西暦1621)江戸の鍛治橋の門外に屋敷を与えられ、江戸を拠点に城郭や寺院の障壁画を描いていきました。江戸城や大坂城の障壁画は残念ながら焼失してしまいましたが、名古屋城本丸御殿上洛殿の水墨画の障壁画は大東亜戦争の際に外して疎開させてあったので、現存していますし、二条城二の丸御殿の障壁画や大徳寺の方丈の障壁画がガンゾンする代表的な作です。


まとめ

学校で歴史の教科書や参考書で、安土桃山時代から江戸時代にかけての箇所には、必ず狩野永徳の「唐獅子図屏風」の画像が載せられていて、誰しもが目にしてたことでしょう。私はこれを見てうちにも欲しいと思いました。この思いは今でも変わっていません。日本の文化芸術を大事にし、これを伝えていくことは日本に生まれたものとしては大切かと思うのと、それらを作った人や伝えてくれた人に感謝することも必要ではないかと思うのです。このことの最初は直近に亡くなった方や先祖を敬うことから養われていくことでしょう。「恭敬の会」では、文化を大切にするためにも、亡くなった方々を大事にしてことから取り組んでいます。それは、ただお骨を送るだけでなく、僧侶が訪問して礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めしてから、お骨を預かり納骨するということです。
恭敬の会の送骨 訪問預骨 永代経。永代供養は、文化を伝える一環なのです。

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