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猫も杓子も

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2022.07.21

猫も杓子も

「猫も杓子も」と言うことがあります。それは「猫」は動物の猫で「杓子」は、ご飯をよそったり、お汁をすくったりする道具のことで、ご飯の場合は「おしゃも」と言いますし、お汁の場合は「おしゃも」です。猫も杓子もとは「誰も彼も」や「なにもかも」という意味なのです。その起源はいくつかあり
先ずは一休禅師が残された伝説が記されている『一休咄』に「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」と載せられていることが始まりという説。
次に、「禰宜も釈氏も」という説で、禰宜(ねぎ)は神主、釈氏(しゃくし)はお釈迦様の弟子で、仏教徒(浄土真宗では法名は釈〇〇、もしくは釈尼〇〇で、苗字は人によって違うけれど、仏弟子になったらお釈迦様の氏になり釈氏となります)のことを言って、誰も彼もという意味になります。
次は、「女子も弱子(めこもじゃくしも)」という説で、女子(めこ)は女性、弱子(じゃくし)は子供のことで、女も子供もということでだれもかれもと同じ意味です。
次は、「猫と主婦」という説で、杓子は主婦を表しているらしく、日常的にありふれているものとして、猫や主婦をあげているという説です。

タクシーの運転手さんが

京都に住んでいて、法衣を着て伏見方面にタクシーに乗ってお参りに向かうときに、運転手さんが、「お客さん伏見に行かれるのですか、伏見稲荷と本願寺は仲良しだっったんですよ、猫も釈氏もって言いますからね、猫はお稲荷さんの使いの狐の変化で、釈氏は本願寺さんで法名を頂かれた方だから、伏見稲荷と本願寺は仲良しだと言われてますよ」と話してくださいました。私は「猫も杓子も」は、動物の猫もおしゃもじの杓子で、それこそなんでもかんでもという意味だっと思ってましたので、凄く新鮮で面白いと思ったことがありました。

誰も彼も、何でもかんでも

猫も杓子もの意味で、誰も彼も、何でもかんでもは、肯定的な意味合いと、否定的な意味合いがあります。肯定的な意味だと全てのひとびとが同じ方向性を持って行動しているということで、例えば「震災が起こって大変なんだけど、猫も杓子もボランティアに勤しんでいる」というような使い方の場合は、まとまっていて良い方向性だと言えます、京都のタクシーの運転手さんが仰ったのも、肯定的な取り方で同じ方向性がありまとまっているのだと言えます。
否定的な意味だと、動物も道具も皆一緒にしてしまい、種類が違うのに一緒にしてしまうのはよくなといようで、例えば「猫も杓子も同じような格好をする」という使い方の場合は、人は背も高い人、低い人、ふくよかな人、細い人と様々で違うのに皆一緒で個性がなく面白くないということになります。

同じような使い方の言葉

猫も杓子もと同じような意味で使う言葉としては
「右を見ても左を見ても」というのがあり、それは、周りを見回してみても、同じ有様だということを意味していて、これは皇帝も否定にも使います。
「老若男女」というのは、歳をとって老いている人、若いひとも、男性も女性もで全ての人達という意味で、主に肯定的な時に使います、また似ている言葉に「善男善女」があります。
また、「揃いも揃って」というのは、同類のものが集まっているのを呆れたという気持ちになっていう言葉で、これは否定的な意味の時だけ使います。

違う種類のものが一緒にや、同じ種類が一緒に

猫も杓子もとは、動物と道具という種類の違うものが同じことを行う、それが禰宜も釈氏もだと神主さんと仏教徒という種類の違い、タクシーの運転手さんが仰った伏見稲荷と本願寺も、神社と寺院で種類は別のものです。そのように別の種類でも同じことをする、というのが大事なことではないでしょうか。
同じ人間であっても、いがみ合ったりすることが多いです。喧嘩をしたり虐めをしたりというようなことで、自分の趣味や嗜好、考え方、思想、主張が違うから、気に入らない、許せないと言った思いがそれらのいがみ合う気持ちを引き起こし、喧嘩になり、虐めになっていくのでしょう。自己主張のぶつかり合いで、それの最たるものが戦争で、たくさんの人たちが殺され傷つけられて憎しみ合う。これは人類が生まれてからこのかた各国で数え切れないくらい繰り返され、科学技術の発達と共に悲惨さ被害の大きさが拡大してきたのです。
いけないこと、よくないこと、悪いことだと分かっていても、それが止められないのが人間で、その心を起こすのが煩悩です。その煩悩が物凄くたくさんになり争いの心がぶつかり合ってとめどなく続くのが、戦争ばかりするの六道輪廻の中の「修羅」です。
宗教の違いによっても、信仰する対象が違い、自分達が信仰し契約する神が違うと、違う宗教の人達は傷つけたり殺めても許される、とされ、日本においても南都北嶺(奈良の興福寺の僧兵、比叡山の僧兵)が自分達の主張を通すために強訴と呼ばれる実力行使を行ったり、念仏の教えはけしからんと、押しかけて打ち壊したりしました、時代が下がると、法華衆徒が本願寺を焼き討ちしたりということが行われ、西洋でも古くは十字軍、今でも神の名のもとに聖戦と呼ばれる戦いやテロ活動が繰り返されてるのです。

まとめ

愚かなことを繰り返してばかりの人間ですが、猫も杓子もという言葉があるように、違ったものが一緒に行動する、違っていながららも同じくできるようになれるのです。
それが、自分達は愚かな存在であるとしらせてもらえるのが、仏様の知恵の光明で、人のことも主張も認め合わなくてはならないのあっていけるを教えてくれるのが仏様の慈悲なのです。それは今まで縁がなかった人にも光明で照らされ、慈悲が降り注ぐようになるのです。そのために亡き人を思い大切にする心を育てるのが恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養なのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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