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琶湖山最勝寺

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2022.10.11

琶湖山最勝寺

高島市勝野の打下にある琶湖山最勝寺さんの前住職の七回忌に参勤しました。最勝寺は蓮通寺の親類寺院で、先々代住職は蓮通寺の孫で、最勝寺に入寺されました。それ以来我が家とはとても親しくしていて、前住の俊明師は小さい頃蓮通寺と縁の深いお父上を遷化され、それから大変苦労され成人されて住職となられし最勝寺を盛り上げてこられ、蓮通寺の年忌や法要には必ず参勤してくださり、当住の英明師とは私はもとても仲良くしていて蓮通寺の報恩講や年忌等のにも必ず参勤していただいています。

最勝寺の歴史

最勝寺は本願寺八代の蓮如上人が三井寺の南別所から旅立ちされ、舟で沖島から北に向かわれ、高島の白髭神社の北にある勝野の打下に着かれ、その折にこの地の近江源氏の観音寺城主佐々木行実の後裔の山田経豊に子の正明に一字を建立するように御指示があって、筆の物をお下しになりました。開基は文明三年(西暦1471)で、江戸時代に山号を「琵琶湖山」と申請するにあたって、江戸の芝の増上寺から幕府に許可しないように要望が府県されて、最勝寺は金五十両を支払って琵琶湖山から琶湖山に変更して、それが山号となったことなどがありました。

蓮如上人絵伝

最勝寺には蓮如上人の絵伝が所蔵されていて、山田与助という門徒さんが
釋尼妙蓮の報謝として寄進され、嘉永二年(西暦1849)のもので、他の絵伝と違って最勝寺の裏にある権太山という小高いところで琵琶湖を眺めながら蓮如上人が教化されている場面が描かれています。宗祖親鸞聖人の御絵伝は本山からの下附物として法主の裏書とともにほぼ全ての末寺に所蔵されていて、絵相がパターン化されたものであるのに対して、蓮如上人の絵伝は門徒さんの志願によって制作されるもので、大抵は地方の絵師によって描かれているものがほとんどなのですが、最勝寺のものは本山の絵表所の絵師によって描かれたものだと考えられます。稀に本山から下附されたものもあり、長野県の須坂市の勝楽寺所蔵の絵伝は天正九年の顕如上人による正式な裏書があり、特定の寺院の縁起絵伝というものではなく、蓮如上人の誕生から葬送・荼毘までの一代を描いたものの形態であるということが特徴です。
絵伝の一幅目は、大谷本願寺で誕生、生母が本願寺を出て行かれるにあたり鹿子の御影を描かせている場面、石山観音、得度され、修学、金森の道西が訪れる、春日明神の毛げ、参籠、北國修行へ旅立ち、北国教化、存如上人遷化、堅田法住登山の名号、寛正の法難が描かれています。
二幅目は、大津三井寺に脱出、金森の道西宅の逆さ葺き、比叡山衆徒の襲撃、堅田浮御堂、権太山から琵琶湖を眺めながら教化、吉崎御坊を建立、見玉尼葬送、嫁脅し肉付面、腹籠りの聖教、下間法眼が大野城主等と交戦、吉崎御坊退去、河内出口光善寺、が描かれています。
三福目は、山科本願寺の建立、親鸞聖人御真影移徙、大坂御坊建立、病中教化で御文拝読、遷化、遺骸拝礼、荼毘が描かれています。

蓮如上人

蓮如上人は、応永二十二年(西暦1415)に大谷本願寺の第七代宗主存如上人の長男として誕生されました。布袋丸と呼ばれていた幼い六歳の時に父存如上人が正室を迎えられることで、御生母が大谷本願寺から出ていかれることになり、布袋丸に鹿子の小袖を着せて影像を描かせて、それを持って出て行かれました。そのころの本願寺は衰退の極みといえる状態で、繪系図で人々を集めていた佛光寺が隆盛していて、布袋丸は親鸞聖人の教えを正しく伝えている本願寺が何故こんなに衰退しているのかと疑問をもたれ、親鸞聖人の正しい教えを隆盛させていかねばならないと願いを起こされ、学問を収められ永享三年(西暦1431)広橋中納言兼郷の猶子となり、十七歳の時に青蓮院で得度され諱を兼郷卿の一字を受けて「兼壽」、法名を「蓮如」となられました。それから本願寺と姻戚関係であった大和の興福寺大乗院の門跡の経覚について修学され、父の存如承認を補佐して門末に下附するため多くの御商業を書写されました。永享六年(西暦1434)『浄土文類聚鈔』が蓮如上人が書写された最古のもので、永享八年(西暦1436)父の存如上人が本願寺七代を継職されました。
嘉吉二年(西暦1442)には長男である順如(後に出口の光善寺に住職)誕生師、文安四年(西暦1447)には存如上人とともに北國で布教wおし、長禄元年(西暦1457)存如上人が遷化され、弟の応玄を擁立する動きもあったのですが、叔父の越中瑞泉寺の住職如乗師が蓮如上人を強く推したので、本願寺八代目を継職することになりました。寛正六年(西暦1465)延暦寺の衆徒が大谷本願寺を破却し、蓮如上人は親鸞聖人の御影像とともに近江の金森、堅田、大津を転々とされ後に「寛正の法難」と呼ばれるようになりました。文正二年(西暦1468)本願寺派延暦寺と和議を結び、応仁三年(西暦1469)延暦寺と対立していた園城寺の庇護を受けて園城寺の別所に近松の敷地を借りて親鸞聖人の御影像を奉安され、文明三年(西暦1471)越前の吉崎に赴かれ、その時は琵琶湖を舟で渡られ、高島の勝野打下の地で山田正明を化導して、それが後に最勝寺となり
ます。また舟にのり琵琶湖を北上sされ、蓮通寺の辺りでも沢山の門徒を化導され、蓮通寺のあたりでも十幅以上のお名号があります。越前吉崎に着かれ、吉崎御坊を建立され、北國からも沢山のお参りの人が集まって吉崎は寺内町としてもすごく賑わいました、その時に姑が吉崎に参詣しようとするのを脅すためにかぶった鬼の面が外れなくなり、肉についたという肉付の面に話が出来上がりました。文明七年(西暦1475)蓮如上人は吉崎を退去され、若狭ん小浜から丹波、摂津を通って、河内の出口(後の光善寺)に居を定められ、文明十年(西暦1478)山城の山科に本願寺の造営を始められ、佛光寺の経豪が本願寺に帰参し、興正寺を建立し、本願寺派発展していきました。その後蓮如上人は実如さんに本願寺住職を譲り、山科の南殿に隠居され、摂津石山の地に坊舎を建立され、それが大坂石山本願寺となり豊臣秀吉の大坂城となります。明応八年(西暦1499)山科本願寺にて遷化されました。

まとめ

最勝寺は、蓮如上人の御旧跡でもあり、また江戸時代から行われている東本願寺で毎年行われている京都から吉崎に向かう蓮如上人の御影道中のお立ち寄りのお寺ともなっていて、蓮如上人を慕われる門徒さん方も参詣されることが多いのです。これは再勝寺の門徒さんだけでなく、全国の浄土真宗の門徒さんからも慕われて崇敬されているのです。「恭敬の会」も全国の方々に慕われていただけるようになるのを目指していて、他のお骨を預かる会などが、ただ送るだけなのに対して、負担が少なく煩わしいことがないように、僧侶がお伺いし、礼拝の対象の三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めをして、お骨を預かり納骨いたしずっと供養します。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は広い人々に慕われて安心していただくためにあります。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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