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百人一首

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2023.05.27

百人一首

五月二十七日は百人一首の日です。
文暦二年(西暦1235)藤原定家卿によって小倉百人一首が完成されました。定家卿の「明月記」の文暦二年五月二十七日の項に、定家が親友であった宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌の百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の襖に貼られた色紙との記述があって、この紀事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられているのです。
子供の遊びに「坊主めくり」といいうのがあり、それは百人一首の絵札(読み札)を用いて、その絵札を裏返して積み重ね、参加する人はその札を一枚ずつ手にとり、絵札が男性(殿)の場合は、そのまま自分の手札とし、絵札が僧呂(坊主)の場合、それを引いた人は、自分の手札を捨てて、積んである山札の横におきます。絵札が女性(姫)の場合、そのまま自分の手札とする、積まれた山札が無くなった時に、持っている手札が一番多い人が勝ちとなるといったルールの遊びで、坊主をめくった時にすごく残念がるおですが、これによって坊主(僧侶)が親しく感じられるようになり、身近に感じられるようになるということがありますが、昨今では生活において僧侶や寺を身近に感じることが少なくなり、それによって弔いや供養が身近で亡くなり、金銭的な負担の増加や、儀式作法付き合いの煩わしさから、葬儀が行えない、供養を行わないといったこと院あってきたとも思われます。そこで僧侶を身近に感じられるようになり、負担が少なく、煩わしさがないように「恭敬の会」の訪問預骨が行われるようになりました。

百人一首とは

「百人一首」とは、百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞歌集)で、ひゃくにんいっしゅと言われます。藤原定家卿が文暦二年(西暦1235)に嵯峨の小倉山山荘で揮毫した小倉山色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、それが🧑‍⚖️に定着して「小倉百人一首」と呼ばれるようになったのです。
小倉百人一首は、定家卿が鎌倉幕府の御家人であった宇都宮蓮生の求めに応じて、作成した色紙で、蓮行は嵯峨(現在、右京区嵯峨)の別荘の小倉山荘(中院山荘)の襖の装飾のために、定価卿に色紙の作成を依頼したもので、天智天皇から藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経に至るまでの歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家卿日記である「明月記」の文暦二年(西暦1235)五月二十七日の項に記載されていて、その草稿ぼんの「百人秀歌」と九十七首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示しているものだと考えられています。現代に伝られる百人一首は百人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代別に配列されたもおなのですが、百人秀歌は歌合せの方式で記録されていて、必ずしも年代別には配列されておロズ、後鳥羽院や順徳院が詠まれた二首は「明月記」や「百人秀歌」には含まれていないことから、藤原為家が補綴沙汰と考えられています。

百人一首の広がり

百人一首は成立当初は、一定の呼び方はなくて、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれていたのですが、定価きょうが小倉山で編纂したという由来から「小倉百人一首」と呼ばれるようになりました。
室町時代の後期に連歌師の宗祇(応永二十八年(西暦1421)生、文亀二年(西暦1502)没)が著述した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究され、紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになりました。江戸時代には入ると、木版画の技術が普及していき、絵入の歌がるたの形態で広く庶民にも広がっていき、人々が楽しめる遊戯としても普及していきました。

藤原定家

藤原定家卿(ふじわらのさだいえ、ていか)今日は、平安時代末期の応保二年(西暦1162)生まれで、仁治二年(西暦1241)八月二十日没の、公家で歌人でした。藤原北家御子左流、正三位の藤原俊成の二男で、最終官位は正二位、権中納言で、京極殿または京極の中納言と呼ばれました。
歌道における御子左家の支配的な地位を確立され、日本の代表的な歌道の宗匠として仰がれています。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の二つの勅撰和歌集を撰進した他に、秀歌撰に『定家八代抄』があって、歌論書には『近代秀歌』や『詠歌大概』があって、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じているのです。家集には『拾遺愚草』があって、拾遺愚草は六家集の一つに数えられてます。宇都宮頼綱に依頼されて撰じた『小倉百人一首』には定家自身の「来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」という歌を撰じているのです。一方で『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写、注釈に携わっていて、この際に用いた仮名遣いが定家仮名遺のもとになりました。十八歳唐七十四歳までの五十六年にわたる克明な日記である『明月記』を残していて、‘この中で建仁元年(西暦1201)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』と読まれます。

まとめ

藤原定家卿による小倉山荘の色紙を元とした百人一首は、坊主めくりとして字が読めないおような幼い頃から、親しんで遊べるものとして親しまれてきて、これは現代お寺や僧侶が、毎日親しまれる存在から離れていってるなかで、百人一首の坊主めくりのように親しまれるようになり、世間に馴染ませるために行ために、「恭敬の会」のでは僧侶がお家に伺って、礼拝の対象となる「三つ折り本尊」を授与し、その前で丁寧にお参りし、僧侶やお参りすることに親しみを感じていただき、お勤めの後にお骨を預かって、それを本坊蓮通寺にて納骨して、供養をずっと行なっていくっことによって、百人一首にように親しみのある、負担が少なく煩わしいことがない弔い、供養となっていけるよ宇にするのを目標としているのです。

送骨 恭敬の会 訪問預骨 弔い 供養

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