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盆灯会

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2022.08.14

盆灯会

八月十四日の夜は 岩熊の墓地である「蓮華浄苑」で「盆灯会」(ぼんとうえ)が行われます。
盆灯会は、平成四年竹下内閣の故郷創成予算によって、当時は長浜市に合併する前で西浅井町は、各集落の墓地を整備するのにこの予算を使うことにして、それまで各集落はお参りし難い山の斜面などあった墓地を、お参りしやすい場所に移して、先祖を敬うと共に、これからの住民がお参りしやすいようにと行われ、岩熊においても、それまでの「不動谷墓地」からすぐ下で平地に墓地を造成し、斜面に立ってあった墓石を移して公園墓地と知って、それの完成を記念して、「盆灯会」と名づけた法要を涼しくなった夕方に行うことになったのです。

蓮華浄苑ができるまで

岩熊の蓮華浄苑ができるまでは、不動谷墓地が岩熊の共同墓地でした。明治の中頃に墓地台帳ができてから蓮華浄苑ができる前年の平成3年までを数えてみたら千数百名の方が埋葬されていました、それ以前は山を持っている家(岩熊は苗字の種類は二十くらいで、それぞれが分家で増えていきました)が、それぞれの山の入り口もしくは中腹に墓地を持っていて、そこに埋葬していたのでした。
うちも、現在、岩野神社のあるあたりから、「おばな」(これが蓮通寺の山号「尾華山」の元になりました)と呼ばれる山の尾根づたいに頂上まで沢も含めてが我が家の山で、現在のJR湖西線の城山トンネルの東側出口の直上付近に我が家の墓石があり、大体百坪くらいが墓地域で、今でも残っています。
残念ながら、大正時代に祖父の兄が本山に出資していて、ご門跡のそば近くに使えそのご門跡が投資に失敗され、おそばにいた者もそれぞれの資産を持ち寄ってお使いいただくことをしたようで、うちも山や田んぼを全部借財のカタに取られてしまいました。流石に墓だけは残りました。

東大谷万灯会

私は昭和六十一年四月から、京都の東山浄苑に勤務し始め、東山浄苑苑では八月十三日、十四日、十五日と「盆灯会」というものを行われています。それは、宗祖親鸞聖人の御廟がある大谷本廟(現在では大谷祖廟、俗に東大谷)の東大谷墓地で昭和三十六年(西暦1961)から行われている「万灯会」に倣って、東山浄苑が開苑した昭和四十八年(西暦1973)より行わているのですが、東大谷に万灯会み、今では京都に夏の風物詩他なっています。
東大谷墓地は、京都市の墓地で管理を東大谷が行っていて、円山公園の東の山の斜面に約一万基の墓石が立っている墓地で、東大谷は、親鸞聖人が遷化され大谷(今の知恩院にの山門の北にある崇泰院の辺りの大谷(大きな谷の地形だったのを、徳川秀忠が知恩院拡大のために谷を埋めた)の地に廟堂を建立されたことから始まり、廟堂が亀山天皇から「久遠実成阿弥陀本願寺」という寺名をいただき、「本願寺」となって、八代目の蓮如上人のご教化によって教勢が急拡大し、それを善としない比叡山の僧兵によって、破却され、蓮如商人は各地を転々とされ、山科に本願寺を建立され、それも法華宗徒によって焼かれ、大坂に移り、また京都に戻って本願寺ができ、それも東西分派して、西本願寺は鳥辺野に宗祖聖人の御廟をたて、東本願寺は徳川家光によって現在の大谷の辺りを寄進されたことで、大谷に御廟を建立し、それが大谷御廟、大谷別院、大谷本廟隣、昭和五十六年に大谷祖廟と名称を変更し、今に至っています。
そこで、一万基ある墓地に約一万の提灯を吊り、8月十四日から十六日まで「万灯」として行われています。

東山浄苑盆灯会

東山浄苑は昭和四十八年(西暦1973)に開苑した、東山三十六峰に連なる六条山(東本願寺二十一世嚴如上人にご降嫁された、伏見宮家の和子女王が、お化粧料として持参された)の頂に造営された納骨堂で、二万坪(現在では三万坪)の敷地に納骨堂があり、二万基以上の納骨仏壇があります。
開苑された年の夏、東大谷の万灯会に倣って始まったのが東山浄苑の「盆灯会」でした。東大谷は一万基の墓石が山の斜面に建つ墓地で、約10000の提灯が吊るされることから「万灯会」と名付けられましたが、東山浄苑は開苑した時点では数千あるかないかの状況だたので、お盆の灯明にちなんで「盆灯会」と名付けられて始まりました。最初は納骨檀の契約も多くなく、納まったお骨も少ないので、提灯も万とはいかないので、お盆の灯明の法要という意味で「盆灯会」と名付けられ、それ以降うっと続いています。私が退職する前には提灯もほぼ一万になっていました。いつもは午後4時半にお夕事を務めたらすぐに洋服に着替え、午後五時を待ち、五時になったらすぐに帰るという日々ですっが、お盆の前七月中頃からは提灯の申し込みが届いてくるので、毎日居残りしてみんなで手分けして提灯に法名(丸型には法名と、願人さんの氏名)を書いて、八月十二日までに提灯を吊って準備を行います。

ふるさと創生

平成三年、、時の内閣であった竹下登内閣の目玉背策として「ふるさと創生」が立ち上げられ、各地方自治体に1億円を配布されることになりました。ある自治体では金塊を購入し、見物させるちうことをおこなったりしましたが、蓮通寺がある西浅井町では、各集落の墓地を整備しようといいう小音になり、蓮通寺の岩熊でも、それによって今までの山の斜面んいあってお参りしにくかった「不動谷墓地」を、そのすぐ近くの平地に墓苑を造成して墓石を移す、もしくは新造することになりました。翌平成四年無事地立派に完成して「蓮華浄苑」と名付けられました。それを記念して「蓮華浄苑 盆灯会」が行われることになりました。
十四日午後六時の涼しくなた時間に、中央奥の六字名号の前でお勤めをして、お参りの人たちがお焼香し、蝋燭の火を分灯し、各家の角形提灯に火を灯すのと、墓苑の外周に吊るされた丸い提灯に明かりが灯され、幽玄な雰囲気になります。

まとめ

浄土真宗の教義では、お精霊さんをお迎えし、お盆の間家に居ていただき、送り火でお帰りいただく ということはないのですが、世間一般と同じようにご先祖を想い、感謝するお盆の行事をにすることは大切だと思うのです。「恭敬の会」は、亡き人のお弔い、納骨っをご縁とし、先祖を大切にしていくお手伝いを、負担を少なくして行えます。恭敬の会の送骨 訪問預骨、永代経、永代供養は、今までご縁の薄かった方々のためにもあります。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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