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祇園祭について

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2022.07.26

祇園祭

祇園祭は日本でも一番有名なお祭りです。たいての人は祇園祭といえば華麗な山鉾巡行を思い浮かべ、それだけが祇園祭だと思いがちですが、本当は一ヶ月に渡り行われるのです。
七月一日、長刀鉾の稚児祇園祭りの無事を祈って八坂神社にお参りすることから始まり、七月三十一日、疫神社夏越祭りが行われ終了します。
その間に様々な神事、行事が行われ、それを総称して祇園祭りなのです。

祇園祭の歴史

祇園祭は八坂神社のお祭りで、明治までは八坂神社(祇園社)は比叡山延暦寺に属していたので「祇園御霊会」と言われていて、貞観五年(西暦863年)から続く祭礼で、祇園社の祭神の牛頭天王がお釈迦様のお寺の「祇園精舎」の守護神なので、祇園社と呼ばれていて、その祭礼が祇園祭です。
明治政府のとんでもない政策であった神仏分離令で比叡山から分離され八坂神社となり、祭礼の名前も祇園祭となりました。
非暗時代の中頃の貞観五年(西暦863年)に疫病が大流行してそれの退散を願う御霊会を神泉苑(現在は二条城の南の小さなにわとなってしまっているが、広大な庭園だった)で行われたのが最初とされ、御霊会とは疫神や死者の怨霊などを鎮めるて宥めるために行う法要祭礼で、疫神も恨みを現世に残して亡くなった人々の怨霊の祟りだと考えられてい他のだが、神泉苑での御霊会の後も疫病の流行が続いたので、牛頭天王を祀り、御霊会を行なって疫病退散を祈ってそれが続いているです。
平安京は盆地にあり、夏が暑く真夏に多くの感染症が流行したので、真夏に行われる良湯になったと考えられます。

山鉾巡行の起源

祭礼は、神輿渡御を中心として行われるのですが、それが鎌倉時代末期の元享元年七月二十四日(西暦1321年8月8日)の『花園天皇宸記』に鉾を取り巻く「鉾衆」の回で「鼓打」たちが風流の舞曲を演じた、と記されていルコとからも窺えます。
南北朝時代には、富裕な町人達が風流拍子物をくる出して競い合い、室町将軍家が調進した「久世舞車」や大舎人座が出した「鷺舞」などの芸能が盛ん人っていき、室町時代になると四条室町を中心とする下京地区の町衆の自治組織(両側町)が成立していき、趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるよになったのです。それまでは単独で巡行していた竿状の鉾と、鞨鼓舞を演じる稚児をのせた屋台が合体して、現在のような鉾車が出来上がって、猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わって「洛中洛外図屏風」でもその様子が窺い知れるような形になっていきました。
江戸時代の大火や先の大戦などまた、コロナウイルス蔓延で山鉾巡行の中止等はありましたが、現在まで神事は連綿と続いていて、今年は山鉾巡行も行われました。
先の対戦後、それまで四条通りを東に向かい、南に下がって松原通を西にいくという順子打ったのを四条から北に向かい、市役所のある御池通りを西に行くというコースに変更され、前祭りと後祭りが一緒にされていましたが、平成26年からは前の祭りと後祭りが分けられ、もとの形に戻されました。
御池通りになったのは、有料観覧席を設け京都市の財政補助に役立てる意味もある用意です。


祇園祭の行事

祇園祭は一ヶ月に渡り執り行われるのですが、それに先立ち六月に山鉾の先頭をいく長刀鉾の稚児(現在では生き稚児を乗せるのは長刀鉾だけになっています)を選考会が行われ、京都の富裕な家の子供さんが選ばれます。
先ず、お千度と呼ばれる 長刀鉾の稚児が八坂神社にお参りし、祭礼の無事を祈ります。翌日には山鉾の順番を決める「くじ取式」が行われ、各町では二階囃子と言って祇園囃子が演奏されます。十日になると前祭りの鉾立てが始まり、職人さん達が山鉾を組み立てます。他の地方の祭り山や山車は、組み立てらて蔵に仕舞われることが大多数なのですが、祇園祭の山鉾は毎年組み立てられ、祭りの後には片付けられます)
十六日の夜には宵山で、四条通りなどが歩行者だけにな李、何十万人という人でいっぱいになります。十七日には前祭りの山鉾巡行が行われます。十八日からは後祭りの鉾立てが始まり、二十三日の夜は後祭りの宵山、二十四日は後祭りの山鉾巡行が行われ、花笠巡行も行われます。夕方から神輿渡御が行われます。二十九日には神事済っ報告祭が行われ、三十一日疫神社夏腰祭りが行われ、祇園祭が終了します。

稚児の千度参り

七月一日 長刀鉾の稚児が八坂神社に向かい、足をつけないように、白馬にのり、そのあと強力(ごうりき)に担がれて参拝する「社参の儀」が行われます。
長刀鉾はくじ取らずと言って、他の山鉾はくじを引いて巡行の順番を決めます。

鉾たて

祇園祭では、他の地方のお祭りのように、山車などを蔵に収蔵しているのではなく(毎年組み立てられる祭りも若干あります)、毎年山や鉾を組み立て、巡行が済んだらそれを片付けて仕舞うということを行なっていて、技術の継承を行なっています。縄を編んで巻きつけ括りつける、また機械を用いず真木を立てる技術とかは芸術的ともいえます。

宵山

前祭りは十五日から、後祭りだと二十二日から、夜にんると山鉾の前後に駒形提灯と言われる沢山の提灯に灯りが灯され、幽玄な雰囲気にあなるのと、咲祭りの宵山では四条通りだとが歩行者専用になり、露店間沢山でて何十万人という人出になり、それを祇園祭りだと思ってる人も多数あります。

山鉾巡行

前祭りは十七日、後祭りでは二十四日に祇園祭のクライマッックスである山鉾巡行がおこな割れます。山鉾の先頭を行く長刀鉾の稚児によってしめ縄を切り巡行が始まり、四条通りを東に進み、河原町の交差点から北に向かい小池の小草店で西に向かいます。先に書きましたが、昔は四条河原町を南に下がり松原通りあ9平安時代の五条)を西に向かって戻るのだったのです、それは下京の町の外れまで行くということで、疫病を町の外にでて行ってもらうという意味だったようです。

神輿渡御

二十四日午前に後祭りの山鉾巡行が済んだあと、夕方から神輿渡御が行われ、三基の神輿が八坂神社を出発し三条大橋を渡り、四条河原町の少し西にある御旅所まで向かい、また三条大橋を渡って八坂神社に戻るという順路で渡御が行われます。また花笠も行われるよになり(今年も花笠巡行は中止)ました。

まとめ

祇園祭は、平安時代の疫病退散を祈るのから始まり、千百五十年に渡り続いてきました。それは祭りは楽しいというのと、疫病を恐れるのも、退散して欲しいという祈りもありますが、続けていこうとする気持ち、先祖の知恵や思いを受け伝えていき大事にしなくてはならないということ、文化の伝承、もあります。
このことは、亡くなった方に対する気持ちや行いも同じではないでしょうか。
以前は夏になると里帰りしてお墓参り刷りのが、楽しみでもありました。
恭敬の会では、納められた方が、納めた墓地にお参りしたいというお気持ちが起こられた場合のことも大事にしており、いつでもお参りしていただけます。
それが、恭敬の会の 送骨 訪問預骨 永代経。永代供養なのです。

恭敬の会 の送骨 訪問預骨

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