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第二室戸台風

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2022.09.18

第二室戸台風について

昭和三十六年(西暦1961)九月十六日、その年の台風18号が四国の室戸岬に上陸し、そのあと大阪湾唐若狭湾に向かい日本海に抜け、日本海岸沿いを北上した台風で、大阪湾岸に甚大な被害をもたらし、蓮通寺でも被害をもたらせました。
昭和九年(西暦1934)の室戸台風と進路が似ていたので、第二室戸台風と名付けられました。また、昭和二十六年(西暦1951)の統計開始以来、日本に上陸した台風の中で上陸した時の中心気圧が最も低い(890ヘクトパスカル、当時はミリバール)台風としても知られています。

第二室戸台風の経過

九月六日、北緯7度、東経173度付近のマーシャル諸島東部で弱い熱帯低気圧として発生しました。九月八日の九時にはエニフェクト島の南の海上で台風18号となりました。その時の中心気圧は990ヘクトパスカル(当時はミリバール)で、西に向かいながら発達していきこの時点で935ヘクトパスカル隣、十二日には米海軍の飛行機による観測で中心気圧が888へいくとパスカル、最大風速毎秒94メートルとなり、これは過去に解析された風速で最大のものとなりました。
また、範囲は風速25メートルの暴風域は半径370kmでした。台風は次第に進路を北向きに変え、九月十四日から十五日にかけて沖縄の近海でまった向きを変え北東に進み、奄美大島を通過し四国から本州に達することが確実になり、伊勢湾台風級の超大型台風が襲来するとして、大阪府などは厳戒態勢をとり、九月十六日、台風は室戸岬の西方に上陸し、この時の中心気圧は925ヘクトパスカルでした。その後あまり衰えずに四国を通過し、瀬戸内海を渡り、兵庫県に尼崎市と西宮し付近に再上陸し、近畿地方を縦断し、蓮通寺のある滋賀県にとっては最悪の西側を通って南東の強風と雨をもたらしました。若狭湾に抜け18時には能登半島に達してその後日本海沿岸を北上し、北海道の西側を通って十八日にオホーツク海に進んで、温帯低気圧となりました。

第二室戸台風の分析

第二室戸台風は、発生した位置や日本海を北上した後の経路は違うのですが、日本に上陸する前後の経路が昭和九年(西暦1934)九月二十一日に来襲した室戸台風とほぼ似ていて、そのゆえ「第二室戸台風」という固有の名前がつけられるようになりました。上陸時の気圧については室戸台風のほうが低いのですが、風速については第二室戸台風のほうが圧倒的に強く、昭和四十年に同じ室戸岬で毎秒69、8メートルを観測されるまで第1位で、暴風域の範囲は伊勢湾台風に匹敵するくらいでした。また近畿地方に再上陸してからも勢力が衰えずに、洲本、大阪、京都では観測史上開始以来の最低気圧を観測して、暴風や高潮の被害が発生しました。特に高潮は大阪湾工事基準基準面上で、4,12mに達して戦後の急激な工業化に伴って地下水の汲み上げによる地盤沈下が激しい、西淀川区、港区、此花区、福島区、北区、西区、大正区、西成区、城東区、都島区が浸水して、大阪市の4分の1にもなるものでした。
台風あ通過した近畿地方や吹き返しの強い風が吹いた北陸地方では暴風による家屋の倒壊等の被害はと絵も多かったのです。しかしこの第二室戸台風の二年前に来襲した伊勢湾台風の教訓が活かされ、台風の勢力や規模、家屋被害の割には犠牲者を少なく抑えられることには成功しました。

第二室戸台風の被害、観測記録

最低気圧 日本6位
名瀬、918、0ヘクトパスカル。室戸岬、930、4ヘクトパスカル。洲本、934、4ヘクトパスカル。大阪、937、0ヘクトパスカル。京都、937、4ヘクトパスカル。和歌山、939、0ヘクトパスカル。
最大風速 日本で1位
室戸岬、毎秒66、7m。富士山、毎秒59、3m。伊吹山、毎秒56、7m。土佐沖ノ島、毎秒45、5m。酒田、毎秒37、7m。洲本、毎秒36、7m
上陸時に中心気圧が低い台風、日本一位
死者、百九十四人。行方不明者、八人。負傷者、4972人。住宅全壊、15238棟。住宅半壊、46663棟。床上浸水、123103戸。床下浸水、261017戸で、

蓮通寺の被害

蓮通寺でもこの第二室戸台風では被害を受けました。私は二歳半で妹は生まれて一ヶ月半で、記憶には全くないのですが、母や祖母から聞いた話や、その後の我が家の様子でそれを知ることができました。それはこの第二室戸台風で、庫裡の裏に突き出してあったトイレ(当時は便所)にかぜで飛んできた大きな木の枝が当たって大破してしまったそうなのです。それによってコンクリートブロックを積んだトイレ(便所)が立てられ、それが平成になるまで使われていたのです。
それとともに、第二室戸台風の後七年経って今の庫裡を建てる時に、父はもう一間か二間北に広げて建てたかったのですが、それには建てたトイレを潰さなくてはならず、祖父がコンクリートブロッくでトイレを建てて七年しか過ぎていないから勿体無いと反対し、父の考えは通らなかったのです。今にして思えば父の思いも理解できるし、祖父の思いも理解できます。しかし、第二室戸台風の被害がなかったら父の構想していた通りになったかもしれないと思うと、自然は人の思いを超えているのだということがよくわかります。
それととに、蓮通寺のある長浜市西浅井町岩熊は、第二室戸台風の教訓で、大きなきが木が切られてしまい、たの集落にあるような巨木というのが一つも無くなってしまったのです。それは蓮通寺の境内にあった空洞になった椎木や、石垣の下にあった銀杏、鐘楼堂の東にあった菩提樹も全て切られてしまいました。

まとめ

第二室戸台風は、大阪にも被害をもたらし、蓮通寺にも被害をもたらしました。それから四十年ほど台風の被害はなかったのですが、六年前には台風の風の一部が突風となり、神社の手水舎をひっくり返してしまい、四年前の台風では蓮通寺の御堂の東側の唐戸が壊れ、御堂正面の菱組が壊れ利ということが起こりました。このように台風の被害はこれからも起こるでしょうし、温暖化の影響で台風はもっと強くなっていくようで、マスコミでは表現に困ってしまい、五十年に一度の災害とか表現知るのですが、それが毎年のように発生するようになってきて、その表現も当てはまらなくなってきています。これは自然は人間が考えている程甘くない、それこそ人智を超えているということなのでしょうし、人間は自分達の想いで全てを押し測ってはいけないと教えてくれているのではないでしょうか。
このことは人が亡くなってお悔やみやそれに関連することでも同じではないでしょうか。「恭敬の会」は、今の自分達の考えで、煩わしいのと負担もかかるので、お勤めもしなくていい、お骨も送るだけでいいというのではなく、煩わしいこともなく、負担も少ないけれども、丁寧にお勤めしてお供養できることを目指していて、僧侶がお伺いして、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前でお勤めしてから、お骨を預かり、納骨するのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨 永代経、永代供養は、これからの人々に適したものです。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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