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羊羹

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2022.10.08

羊羹について

煉羊羹の発祥の地とされている和歌山県の串本町にある紅葉屋本舗の坂井良雄氏が、食欲の秋の十月と、縁起の良い数字の八にちなんで、「いと(10)おいしい、(8)かん」と語呂合わせしてお獅子吼て疲労回復に良いとされるビタミンB1を沢山含む羊羹を食べて、元気になってもら宇野が目的として提唱し、平成二十四年(西暦20120一般社法人・日本記念日協会によって認定・登録されました。

羊羹とは

羊羹とは、小豆を主体にした餡を型(羊羹舟と言います)に流し込んで寒天で固めた和菓子もことです。
寒天の添加量が多くてしっかりとした固さお煉羊羹(ねりようかん)と、寒天の添加量が少なくて柔らかい水羊羹(みずようかん)の二種類があり、観点で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸して固める製法もあります。こちらは「蒸し羊羹」(むしようかん)と呼ぼれて、単に「ようかん」と言う場合は煉羊羹のことを指すことが多いです。
煉羊羹は糖度が高くて保存性が高く、適切な状態で保存しさえすれば一年以上の長期保存が可能なものが多くて、この特徴を活かして非常食や保存食として販売されているものもあります。また糖度が高くて少量でもお高カロリーなので、体内ですぐにエネルギーに変換されやすいことから、スポーツの補給食としても注目されてします。

羊羹の歴史 中国

羊羹の起源は、もともとは中国の料理の名前で、字が示すように羊の肉を煮込んだスープのようなものでした。中国の南北朝に時代に北魏の捕虜となった東晋の武人の毛脩之が「羊羹」を作ったところ三代目の皇帝の太武帝が大変喜んだと言うことが、宋の歴史書である『宋書』に記されていて、これは本来の意味である羊のスープであろうと思われます。
鎌倉時代から室町時代にかけて、禅宗の僧侶によって羊羹が日本に伝えられたのですが、禅宗では肉を食べる肉食は戒律によって戒められているので、精進料理として小豆や小麦粉や葛粉などを使ったものが日本における羊羹の原型になったと考えられます。

羊羹の歴史 日本の中世

羊羹が日本の文献に初めて出てくるのは、室町時代前期の(西暦1300年代の後半)に書かれた擬漢文体で書かれた、衣食住、職業、領国経営、建築、司法、仏教、武具、教養、療養などの多岐にわたる一般常識を内容とする『庭訓往来』の空き腹に小食を点ずると言うことからきて、食事の合間に少量の食物を食べる菓子や軽食の類の「点心」の記事に記載されていて、筍が入ったものと考えられる「筝羊羹」と、砂糖が入ったものと考えられる「砂糖羊羹」が記載されています。その当時の羊羹は汁とともに食べるものでした。文亀四年(西暦1504)の武家の作法書である『食物服用之巻』には、羊羹の膳で、汁と具が別々になっていて、その後の酒宴での料理の一品、それからお菓子へと変化していく途中で汁が添えられなくなっていったと思われます。
貴人がお出ましになる御成の献立に羊羹が登場して、御成の献立の記録を江戸時代になって写した『膳部方記録』には、この時の羊羹の材料には生豆(小豆だろうと思われる)の粉、小麦粉、葛粉をこねたものが使われていて、山芋や胡桃などを入れて蒸すと記されているのですが、砂糖や汁の有無については記されていません。室町時代の後期になると茶の湯が盛んになって、羊羹は「菓子」として茶会で供せられるようになっていき、当時の茶会では甘い物の他に酒の肴も出されていたので、今のような甘い羊羹だったかわからないのです。

羊羹の歴史 日本の近世

江戸時代になって発行された日本語をポルトガル語で解説した『日葡辞書』には、「羹(かん)」「羊羹」「砂糖羊羹」が記載されていて、「羹」は「豆や黒麦と粗糖(黒砂糖)または砂糖とで作る、日本の甘い菓子の一種」「豆に粗糖をまぜて、こねた物ので作った食物」、「砂糖羊羹」は「豆と砂糖とで作る、甘い板菓子のイオ一種」と記載されていて、このことから、記載されている羊羹と砂糖羊羹はいずれも小麦粉を使って蒸した菓子出会って、羊羹は黒砂糖、砂糖羊羹は上等な白砂糖を使っていたと推測ができます。
この時代になると、製法として蒸した生地を臼でついたりこねたりして形成するやり方と、枠や箱に生地を流し込んで蒸して固めるやり方の二種類ができて、現在の羊羹の形の直方体の羊羹が『庭訓往来図讃』には描かれています。江戸時代の後半になると、寒天を用いた煉羊羹が現れて、食感が良くて日持ちのする煉羊羹は江戸の市中でも人気を博して、数十年にうちに他の地方の菓子屋にも製法が広まっていきました。菓子の製法書の『菓子話船橋』や『諸国名物一覧』に載っているいる物から、蒸し羊羹にかわって煉羊羹が主流になりはじめたと考えられ、素材や製法の種類も増え、ゆずやみかん、胡麻を素材にしたものも現れていきました。

羊羹の歴史 日本の近代

明治になると、国内の産業化発展が促進される流れに中で羊羹も製造過程の改良や商品の多様化が進んでいき、交通網が発達することによって観光客あg増えていき、各地で土産のお菓子が工夫されるようになって、その土地ならではの羊羹が作られて定着するようになりました。

まとめ

羊羹は日本のお菓子の中で最も種類が多く、それぞれの地方に必ずご当地羊羹があり、日本のお菓子として定着しています。その羊羹で一番有名なのは「虎屋」で、室町時代に創業し後陽成天皇の御代に御所の御用を勤めるようになり、明治に明治天皇のお供をし東京に進出しました。お茶にお菓子と言われるように、日本の食や生活に欠かせないようになっています。「恭敬の会」も日本の人々に欠かせないようになるのを目指していて、親しい方が亡くなっても、お供養ができない、お墓に納骨できないという方が居られないようにするため、負担が少なく、しかし丁寧にお供養を行なって納骨できるように、僧侶がお伺いし、礼拝の対象の三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めし、お骨を預かって納骨します。恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、羊羹のように親しまれるようになっていきます。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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