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茗荷について

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2022.08.27

茗荷のお汁

この季節になると我が家では「茗荷」が具といして入ったお汁が出てきます。
私は茗荷の香りが大好きで、柴漬けなんかのお漬物にも使われていて、あの食感が大好きです。
ところが、以前勤めていた時の上司は茗荷は嫌いだ物忘れがひどくなって阿呆になると仰り、絶対食べないと話しておられました。そこでなぜあんなに美味しいのに嫌われているのだろると思い、調べてみました。

茗荷とは

茗荷は、ショウガ科のショウガ属の宿根性の多年草で、食用で栽培されるのは日本だけと言われています。
温帯である東アジアが原産で、台湾などにも一部見られます。
草丈は40〜100センチくらいに成長し、葉っぱは20〜30センチで先端は尖っている。花穂及び若芽の茎が食用とされて、一般的には花穂の「花みょうが」を単にみょうがというが、幼茎を遮光して軟白栽培した「みょうがたけ」もあって。雄雌同株で、花器にも雄蕊、雌蕊とそろっている両生花が開花しますが、5倍対のために、受精しても親と同じ数の染色体数になることは稀で、繁殖は地下茎による栄養体繁殖が主体です。ごく稀に夏から秋にかけ温度が高い時に身を結ぶことがあり、地上部に見える葉を伴った茎状のものは偽茎とのことです。

食用としては

食用としての「みょうが」は香味野菜とし用いられることが多く、通常は「花みょうが」「みょうが」と呼ぶものが花穂で、内部には開花前の蕾が3〜12個くらい程存在しいて、そのためこの部分を「花蕾」と呼ぶこともあります。一方、若芽を軟白して遮光し弱い光で薄紅色に着色したものを「みょうがたけ」と呼んでいます。「花みょうが」は、晩夏から初秋にかけて発生し、秋を告げる風味としてよろこばれて、方や「みょうがたけ」は春の食材です。地面から出た花穂が花開く前のものは「みょうがの子」とよばれて、俳句では夏の季語で使われ、素麺の薬味などとして食べられます。独特の香りが好まれ、また独特の紅色が目を楽しませてくれ、麺類や冷奴の薬味として香辛菜として利用され、また、天ぷらや酢の物、味噌汁の具などにも使われます。

みょうがの由来

みょうがの名前の由来は、二つあって、先ずは大陸からしょうがと共に我が国に持ち込まれた際、香りの強い方を「兄香(せのか)」、香りの弱い方を「妹香(めのか)」と呼んで、これが後に「しょうが」「みょうが」に転訛したという説です。
二つ目は、お釈迦様のお弟子に周利槃特という人がいて、記憶力の弱い人で、彼は自分の名前すら忘れてしまうため、お釈迦さまは「槃特」と書かれた旗を作らせて背中に背負わせてあげました。しかし旗を背負ったことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚えることができなかったのです。その周利槃特の死後に墓から見慣れない草が生えていて、そこで「名」を「荷う」ことから、この草を「茗荷」と名付けられたのです。
この故事から「もの忘れがひどくなる」という俗信が生まれたのです。

茗荷紋

お釈迦様おお弟子の周利槃特のお話しとは別なのですが、日本の紋で広く用いられているのに「抱き茗荷」があります。
抱き茗荷紋は戦で命のやりとりをしても、冥々のうちに受ける神仏の加護、知らないうちに受ける神仏の恵、また偶然の幸嫌利益を神仏からの賜物として、命が残る「冥加」を「みょうが」いかけて「茗荷紋」が好んで使われるようになって、その代表的なものが抱き茗荷紋です、また比叡山延暦寺の天台宗の紋としても知られています。
天台宗の守護神として、「摩陀羅神」(またらしん)がおられ(昨今ではほぼ言わなくなりましたが)ました。
摩多羅神は、元々はインドの土着の神様で、『慈覚大師、円仁』によって、比叡山延暦寺に神仏の分霊を請い迎える歓請をしたと伝わっています。
円仁は遣唐使として唐に赴かれたのですが、その帰りに「我を敬い祀らねば、極楽往生も願いはたせせられぬであろう」という摩多羅神の信託が下ったと言われ、これを受けて比叡山に常行堂を建立して、阿弥陀如来の後側にこの摩多羅神を祀られました。それから極楽往生の思想に深く関わって、常行堂の裏口の守護とされたことから、阿弥陀如来と表裏一体の存在として崇められ絵いきました。
それが時代が下がって、摩陀羅神は天台教学と結びついていき、天台宗の真髄たる『一心三観』(一切の存在には実体がないと観想うする空観、それらは仮に現象していると観想する仮観、この二つも一つであると観想する中観を同時に体得すること)や『一念三千』(迷いの中にある人間が起こす、ほんの僅かな迷いの中にも、宇宙のあらゆる姿がそなわっているとすること)の奥義を秘密裏に伝授する儀式の、『玄旨帰命壇』の本尊として祀りあげられることになるんです。
日光山輪王寺に伝えられる『摩多羅神ニ童子図』には、不気味な笑顔で鼓を打つ老人の姿の摩多羅神と、その手前の左右に笹と茗荷を肩に担いで舞う二人の童子が描かれっていて、その奥義を伝授を受ける弟子は、左手に「茗荷」を、右手に「笹」を持って儀式に臨むという決まり事があるのです。
儀式に用いるみょうがと笹が意味するところは、天台宗学において重要な要素である「瞑想」の基礎で極意である『止観』にあるとされていて、この止め観のお境地をいかに重要視されたかは、比叡山を開創された伝教大師最澄が最初に建てられた草庵を『一乗止観院』と名付けられたことからも窺い知れ、茗荷紋は、摩
多羅心とその信仰のシンボルとして使われたのです。

まとめ

茗荷は、お釈迦様のお弟子で記憶力が極めて弱かった周利槃特の墓地に裁定てことから、物忘れがひどくなるということを言われたりして、元の上司はそのことを気にしておられたのでしょうが、本気ではなかったようです。
その茗荷が天台宗では大事な儀式のシンボルとなり、紋になっていったことは不思議なことで、いろいろな縁があるのだと思わせてもらえます。
「恭敬の会」も、今までは縁がなかった方々ともご縁が結べ、それによって心の安心の世界へと繋がっていけるもとになれるのです。恭敬の会の送骨 訪問預骨、永代経、永代供養は、その入り口なのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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