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西行忌

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2023.02.16

西行忌

二月十六日は平安時代後期から鎌倉時代にかけて和歌で有名な「西行法師」が亡くなった日で、前日の十五日は「西行忌」がお勤めされます。亡くなった日の前日に勤まるのは逮夜で勤められるからです。現在、我々は一日は前日の午前零時から二十三時五十九分五十九秒までを一日と数えますが、仏教では十六日に亡くなった人の場合、前日の十五日の正午から翌日十六日の正午前までを命日として一日と数え、前日の午後に勤まる法要を「逮夜」と申し、翌日の午前中に勤まる法要を「日中」と申します。一つの法要が勤まるとは、逮夜、晨朝(朝のお勤め)、日中の三つのお勤めがされて一つの法要が務まったことになります。だから本山本願寺での報恩講は七昼夜と申し、足掛け八日間お勤めされされます。だから西行法師のの法要は逮夜で勤まって、十五日の午後に勤まるのです。逮夜、晨朝、日中を勤めて一つお法要が完了するのは、本来は我々一般の年忌法要などでも本来は、逮夜、晨朝、日中の三座を勤めるべきなのですが、一般の人々が三座勤めるのは難しいので、逮夜もしくは日中に苞っます。恭敬の会でのお勤めも逮夜もしくは日中でお勤めいたします。

西行法師

西行法師は歌人として知られていますが、『新古今和歌集』には九十四区首のあいを歌が入撰されていて、他の歌人に比べてみ圧倒的に多い入撰数です。西行法師は元永元年(西暦1118)に、左衛門輔であった佐藤康清の子として生誕し、諱を佐藤義清といいました。藤原北家の藤原房前を外する魚名藤原氏が、義清の曽祖父の公清に代に佐藤を称するようになり、祖父の季清も父の康清も衞府に仕えて、義清は保延元年(西暦1135)左衛門尉に任じられ、さらに鳥羽院にの御所を警護する武士として召し出され、北面の武士ともなりました。また徳大寺公重の「菊の会」にも招かれて、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んで歌人としての評価も得ていたのですが。保延六年(西暦1140)の十月に出家して西行法師と号するようになり、東山や嵯峨、鞍馬などに草庵をむすんで、東山の現在の円山公園音楽堂近くは西行法師の庵の跡と伝わるところに「西行庵」が残っています。
三十歳の時に陸奥に最初に旅に出て、その後高野山に入り、仁安三年(西暦1168)には、崇徳院の白峰を詣でるためと弘法大師空海の遺跡を巡るのおもかねて四国に旅し、また一旦高野山に戻り、治承四年(西暦1180)頃には伊勢国に移って、文治二年(西暦186)東大寺再建の勧進のために再度陸奥に赴き、奥州藤原氏お藤原秀衡に面し、その途中には鎌倉に立ち寄り源頼朝ににも面会しました。これは『吾妻鏡』に記されています。その後には伊勢国に数年間居住したのち河内国弘川の弘川寺に庵居して、建久元年(西暦1190)享年七十三歳で遷化しました。「願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月ころ」と詠んだ歌が、願いに違わなかったとして、その生き様が藤原定家や慈圓僧正から感動され、共感を呼びました。

出家の謎

西行法師は、上皇、法皇の直属の武士で、主に寺社の強訴を伏せために動員される北面武士として、また平清盛の同い年であって、武勇、和歌の素養を白河鳳凰にも気に入られていたのですが、二十三歳の若さで出家得度してしまいました。その出家したことについての理由として、(1)仏に救済を求める気持ちが強まった。(2)急死した友人のことかあ、人生の無常を悟った。(3)皇位継承をめぐる政争に失望した。(4)高貴な女性(待賢門院もしくは美福門院)への失恋、高貴な上﨟女房との恋に破れた。という説があります。
西行法師は、出家する前に「世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ」という歌を詠んでいて、これは、出家した人は、悟りや救いを求めており、本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ、自分を捨てているのだ、という意なのです。その当時の内大臣であった藤原頼長は日記に「西行は 家が冨み年も若いのに、何あいを不自由ない生活を捨てて仏門に入り遁世したという、人々はこの志を嘆美しあった」と記しています。しかしながら西行法師は、延暦寺などの大寺院に出家するのではなく、どの宗派にも属さず、地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのも不思議に思われてました。『西行物語』や『源平盛衰記』には、同僚が亡くなった無常を悟ったらしい。高貴な女性と叶わぬ恋をしていたという憶測が書かれていて、待賢門院が佐藤義清(のちの西行法師)に対し、「あこぎの浦ぞ」と申して、それは秘密の恋も、逢瀬を度重なれば人に知られてしまうという意味で、西行法師はふられたのです。

まとめ

西行法師は、武士としても歌人としても名声を得ていたのに、出家して遁世し、様々な憶測がある理由があったのでしょうが、和歌を通して仏道をあゆみ、人々の心をうつ歌を沢山残してくださいました。これはまた人の為に仏の道を歩んだことが正しかったことを示しているのではないでしょうか。恭敬の会は、事情によりなかなか供養が行えない人々のために、負担が少なく煩わしいことがなく供養が行えることで、世の中に尽くしていけると信じて歩んでいきます。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

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