Blog ブログ

親鸞聖人の御誕生八百五十年

ブログ

2023.04.06

親鸞聖人御誕生八百五十年

今年は親鸞聖人が誕生されて八百五十年にあたります。親鸞聖人は承安三年(西暦1173)四月一日に御誕生され、今年でちょうど八百五十年になり、真宗大谷派を始め浄土真宗の各派では宗祖聖人の慶讃法要が執り行われています。恭敬の会では基本的に誕生日について祝うということは、強いて言えば祝うことは致しませんが、親鸞聖人が五十歳になられたときに、浄土真宗の教えの根本である『顕浄土真実教行証文類』を著述された事から、浄土真宗の立教開宗の年とされるので、現在我々が浄土真宗の教えを有り難くいただいて一れることに感謝し、これからも教えをいただき伝えていく気持ちを新たにするために、お勤めをして親鸞聖人の恩徳に報いる生活をする契機としていきたいと思っていて、それを広く世の人々にし知っていただくために、
なかなか今までご縁がなかった人々が、仏様の教えを聞いていただける契機となる、ただお骨を郵便で送るだけでなく、僧侶が直接お伺いして、礼拝の対象となる「三つ折り本尊」を授与し、その前でお勤めをし、その後にお骨を預かり、本坊にて納骨して懇ろに供養を行い、お骨を預けられた方々が安心していただき、仏さまの教えを身近に感じていただける訪問預骨を行っています。

親鸞聖人の生まれと得度

親鸞聖人は平安時代末期の承安三年(西暦1173)に、皇太后宮の大進であった日野有範卿と吉光如さまの長男として幼名松若丸として誕生されました。弟には尋有僧都、兼有、有、行兼の四人がおられました)。その頃は源平の騒乱の最中で、母上の吉光女様は源氏の源義朝の子という説があり、鎌倉幕府を開いた頼朝とは姉弟ではないかと言われています。親鸞聖人が生まれられた承安三年は、平治の乱(西暦1160)で源義朝が敗れ平清盛が太政大臣となり政権を握り、「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語するほど平氏が前世の頃で、母が源氏で父は藤原氏の一族とはいえ傍流の日野氏でしたから、立身出世は望めず、父上の有範卿も母の吉光女も亡くなってしまって、伯父の日野範綱卿の養子として、治承五年(西暦1181)の春、九歳になられて範綱卿に伴って粟田口の青蓮院に赴かれ関白九條兼実公の弟で、天台座主の慈圓僧正を戒師として得度されました。そのとき日が暮れてしまったので得度を翌日にしようと慈圓僧正が言われたのですが、松若丸様は「あすありと おもう心おあだ桜 夜半に嵐吹かぬものかは」と、明日はないかもしれないから今日得度させてくださいという歌を詠まれ、その心にうたれた慈圓僧正は直ちに得度式を執り行われたという話がノオっていて、範宴という法名を頂かれ、比叡山に登られたのです。

修行の日々、流罪、関東布教

得度されてから比叡山の常行三昧堂で堂僧として修行に励まれました。しかしながら御自分の悩み苦しみや悩みを解決することができずにおられたのです。二十九歳になられたときに毎日洛中の六角堂に参籠され、百日になる前の九十五日の夜に聖徳太子の夢の「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して 一切群生に黄かしむべし」というお告げを受けられ、これによって東山の吉におられた法然上人のもとに訪ねられ、それは、南無阿弥陀仏の念仏を称えたら平等に救われ極楽浄土に往生できる専修念仏の教えで、まさに親鸞聖人の苦しみに応えられるものでした。そこで比叡山を下りられ、岡崎の地で草庵を結ばれ法然上人の弟子となられ、綽空と名乗られるようになり、法然上人門下隣、元久二年(西暦1205)法然上人の『選択本願念佛集』の書写と法然上人の肖像画を許され、法然上人の門下でも嘱望される存在となられました。法然上人の専修念仏の教えが世に広まって、それを善しとしない南都興福寺の僧や比叡山の僧が念佛停止の訴えを起こし、朝廷は法然上人を土佐に親鸞聖人を越後に配流とし、親鸞聖人は越後に行かれ、その途中琵琶湖を船で超えられ、北西の海津で源義仲の室であった山吹御前の子孫の義隆、義順兄弟に師弟の約諾をされ、後に義隆は海津で願慶寺を義順は岩熊で蓮通寺の祖となりました。親鸞聖人は越後で配流の生活をされたのち赦免隣られたのですが、都に帰っても法然上人は遷化されてしまったので、越後から関東の地に赴かれ。関東で教えを広められ、それが後に関東二十四輩と言われる弟子の方々げでき、常陸国の笠間の稲田n草庵で『顕浄土真実教行証文類』を撰述され、これを浄土真宗の立教開宗の時とされました。関東で二十年過ごされたのちに帰洛され、京都に街中を転々とされ、弟の尋有僧都の僧坊の善法院で遷化されました。

まとめ

親鸞聖人が御誕生されて八百五十年、『顕浄土真実教証文類』が撰述され浄土真宗が立教開宗されて八百年、世の中は大きく様変わりして、浄土真宗の教えが人々の毎日の精神的な支えとなるのが薄れてきて、目先の利益、結果がすぐ出るものに魅かれて行く人が増え、世の中を騒がせているカルト教団に入ってしまわれる方、宗教を普段は必要でないと思われる方が増えてきたのと、葬儀があまりに商業化され派手になりイベント化されセレモニーになってしまい、金銭がかかるようになり、削ぎができない、お墓にお骨を納められない人が増えてきてしまいました。その人達のためにも恭敬の会の送骨の訪問預骨が有るのです。

送骨 恭敬の会 訪問預骨

この記事をシェアする