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豊臣秀吉の命日

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2022.08.18

八月十八日は豊臣秀吉の命日

慶長三年八月十八日(西暦1598)伏見城で豊臣秀吉が亡くなった日です。
辞世の句の「露とおき、露と消えにし 我が身かな 浪華のことも 夢のまた夢」が有名です。
百姓の子として生まれ、立身出世して位人身を際めて関白太政大臣になり、長い戦国の良を統一したことから、太閤さんと慕われている人で、その伝記『太閤記』はあまりにも有名です。

蜂須賀小六との出会い

天文六年(西暦1537)尾張国愛知郡の中村(愛知県名古屋市中村区)で、百姓の弥右衛門となかの夫妻の子として誕生し、日吉丸と名付けられました。貧しい百姓だったのと、父の弥右衛門が亡くなり、継父竹阿弥との仲がうまくいかなかったからか、六歳で光明寺という寺に預けられることになり、その後奉公に出されることになったのですが、飛び出して針を売り歩いて諸国を放浪し、十二歳の時三河の矢作川の橋の上で野宿しているところで、野武士の蜂須賀小六と出会い、眠っていた日吉丸の頭を蹴飛ばし、日吉丸は小六に、人の球を蹴っておいて謝らないのは失礼だ、謝れと強く言い寄って、小六は、子供なのに度胸があると感心したとの逸話があり、その記念の石像が矢作川の橋のたもとにたっっています。

織田信長に仕える

蜂須賀小六との出会いの後、日吉丸は今川義元の家臣で遠江の頭陀寺城の主人であった松下嘉兵衛に仕えて元服して木下藤吉郎と名乗るようになったんですが、同じ仲間から疎まれて松下家を出て尾張に戻り、織田信長に仕えるようになりました。仕え始めた頃の逸話として、信長の草履取りとなっていた時に、冬に信長が草履を履こうとしたところ、ほのかに温かく、信長は藤吉郎に、尻の下に踏んでいただろうと怒ったところ、懐に入れて温めていたと反論し、汚れた懐を見せたところ、信長は感心して、草履取りから格上げして侍にした、との話が伝えら得ています。

信長のもとで立身出世

草履取りから侍になってからも逸話が沢山あり、納戸方になった時は薪を節約したり、崩れた清洲城の城壁を三日で修復したりというのがありますが、頭角を表すきっかけとなったのは、墨俣一夜城と、稲葉山城攻めの功績です。
信長の舅の斎藤道三がその子の義達と争って殺され、信長は道三からの美濃の国の譲状をもらっていたから、美濃を責めるのですが、なかなかうまく攻められず苦戦して、美濃と尾張な境の辺りの墨俣に砦を築き橋頭堡にしようとして、重臣たちが砦作りをするのですが、斉藤勢に阻まれてしまい、藤吉郎が手をあげてそれをおこなうことになり、矢作川で出会った蜂須賀小六などを家来にして、手伝わせ無事に砦を完成させたのが墨俣の一夜城とよ呼ばれる砦で、そこら稲葉山城の搦手を登り、落城させるきっかけを作ろ、その時もの目印として瓢箪を用い、それが秀吉の馬印となりました。

金が崎の退け口

信長に認められて、武将となっていき、木下藤吉郎秀吉から、羽柴秀吉となったのですが戦による戦功があまりなく、他の武将からは一段低く見られ得ていたのですが、信長が越前朝倉義景を攻め敦賀の金ヶ崎城にいた時、信長の妹のお市の方を妻としていた浅井長政が裏切り、信長は挟み撃ちになって、絶対絶命のピンチになって、信長は撤退することになったのですが、信長や主力謡が撤退するために誰かが最後mで踏みとどまって、撤退の手助けと敵を防ぐ役割をしなくてはならず、それは危険で死ぬ確率が高いのです。それを秀吉はかって出て、見事やり遂げたのでした。それからは他の武将たちからも一目置かれるようになたのです。

長浜城の城主となり大名に

金ヶ崎の撤退から立ち直った織田信長は、姉川の戦いで浅井朝倉軍を破り、朝倉義景を滅ぼし、浅井長政も滅ぼして、浅井長政の領地を秀吉に与え、秀吉は城持ち大名となったのです。浅井氏の小谷城は山城で不便だたので、琵琶湖岸の今浜の地を長浜と名前を変え、長浜城を新築し居城としました。秀吉が初めて領地と居城を持ったことから、領民に善政を行い、湖北を含めた長浜の人々はいまでも親しみを込めて太閤さんと言っているのです。

本能寺の変から天下統一

甲斐日の武田勝頼も滅ぼして、織田信長は天下統一の寸前になり、秀吉は中国地方の太守である、毛利氏と対峙することになり、備中高松城を水攻めしているところで、秀吉は信長に出陣を仰ぎ、信長は出陣するために安土から京都の本能寺に滞在しているところを、明智光秀に攻められ信長がなくなり、その仇をるのに高松城から素早く返して山崎で光秀を破り、小竹内の主導権を握り、宿老の柴田勝家も賤ヶ岳の戦いで破って滅ぼし、秀吉は豊臣の姓を賜って関白太政大臣となって位人身を極めました。その後九州攻め、小田原攻めで完全に天下を掌握したのですが、それ以降秀吉は、甥の秀次一族を殺害させたり、千の利休を切腹させたりと性格が変わったようになってしまい、朝鮮を攻めている最中の慶長三年八月十八日に亡くなったのです。

まとめ

豊臣秀吉は貧しい生まれから身を起こし、一代で関白太政大臣にまでなり、天下統一を成し遂げ、暗いイメージの戦国から華やかで明るい時代にしたことら、後に豊臣家を滅ぼした徳川家康とは対照的に人気があり、私も秀吉の築いた大坂城が好きだったこともあり、子供の頃から好きな人物ではありましたが、晩年の秀吉を考えると、それまでの人に対する配慮が行き届いていた、人の心を掴むことができるという性格が、逆転して疑い深くなり疑心暗鬼に陥り、身内までも殺してしまう残虐さになってしまったのは、人間の本質を見事に表していると思え、これは他人事ではなく、誰もが持っている、なる可能性があることなので、今からの自分にも全ての人々も、歴史上の太閤記と捉えるのでなく、自分のこととして教訓としなくてはならないのです。
それが周りを大切にすること、身内を大事にすることからで、亡くなった方達にも大事に思うことが必要ではないでしょうか。それを大事にしていく元が「恭敬の会」で、恭敬の会の送骨 訪問預骨、永代経、永代供養はその一歩めでなのです。

恭敬の会の送骨 訪問預骨 

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