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賀茂祭

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2023.05.17

賀茂の祭

今月十五日は下鴨神社と上賀茂神社にお祭り「賀茂祭」です。
賀茂祭は一般的には「葵祭」(あおい祭り)として知られています。
賀茂祭りは、石清水八幡宮の「石清水祭」春日大社の「春日祭」とともに、天皇陛下の勅使が赴かれる三勅祭の一つとして有名であり、京都の最大祭りとしても有名で、沢山の人々が参観されます。勅使が赴かれる神社の祭礼は「勅祭」(ちょくさい)と言われ、お寺に勅使が赴かれる場合は「勅会」(ちょくえ)と言います。明治時代の神仏分離によって勅使がお寺に赴かれることは表立ってはあまり行われてないのおです。本願寺の宗祖親鸞聖人の御遠忌も以前は准勅会として行われていたのですが、現在では勅使が赴かれることは無くなりました。まして現在の東本願寺、西本願寺では左寄りの僧侶の人々が宗派に上層部の多数を占め大きな声をあげ、政治の世界の左寄りの政党の人たちと同じように、天皇陛下の批判をするのが正しいかのように主張することが良しとしているので、勅使がお見向かれることは、特に東本願寺においては無いと言えます。
神様の祭礼とお寺とは、表面上関係がないように思っている人が多いのですが、そんれは間違いで、祖先を敬う思う心、地域や周りを大切にする気持ちは同じなのです。お骨をただ郵送するだけの送骨ではなく、僧侶がお家に訪れ礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、お勤めをしてからお骨を預かり、本坊蓮通寺で納骨して懇ろに供養を行う恭敬の会でも、神仏ともに敬い大切にしているのであり、賀茂の祭りでも住職は衣紋方として、賀茂祭に奉仕しています。

賀茂祭(葵祭)とは

賀茂祭(葵祭)は、賀茂御祖神社(上賀茂神社)と、賀茂別雷神社(下鴨神社)の例祭で、賀茂祭というのが古来からの正式な祭りの呼び方です。平安時代には祭理と言えば賀茂祭りのことをさしていいました。それが葵祭りと言われるようになったのは、長い戦乱の世が鎮まり世の中が安定した江戸時代の元禄七年(西暦1694)に祭りが再興され、祭礼当日に内裏のお紫宸殿の御簾をはじめとして、牛車、勅使、供奉の人々の衣冠などの装束や使われる道具に至るまで、全て葵の葉で飾るようになって、それ以降に葵祭りと呼ばれるようになったと言われています。
古代より賀茂神社の神紋として使われていた「ニ葉葵」(賀茂葵)がさらなる由来で、徳川家「三つ葉葵」の原型であるとも言われていて、徳川家の先祖である三河国の松平信光が賀茂朝臣を称していたことや、松平氏の出身地が三河国賀茂郡松平郷であることから、徳川家も葵祭りを重視していたのであり、徳川家茂葉孝明天皇に付き従って、葵祭りに参列しています。

葵祭りの歴史

賀茂祭りの期限は、欽明天皇の御代に国内では天候が不順で風雨が激しく五穀がみのらなかったので、当時に賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占いをさせたところ、賀茂の神々の祟りであるという占いが出て、若日子は勅命を仰つかって四月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭を被らせ駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨が治って五穀もお豊かに実るようになり、民心も安定するようになったのです。弘仁十年(西暦819)には、朝廷の律令制度として最も重要な恒例祭祀に準じって行われるようになり、国家行事となっていきました。紫式部の「源氏物語」にもk、賀茂祭りの斎王列を見物しようと、光源氏の妻の葵の上と六条御息所が、車争いを演じた場面が登場します。それから十年以上過ぎてから、光源氏と紫の上が桟敷席から祭りを見物する場面があります。

祭儀

祭儀としては、先ず前儀が行われ、それには五月三日の流鏑馬神事、十二日\の御蔭祭、が行われ、流鏑馬神事は有名で下鴨の糺の森の真ん中にある馬場を公家ふうの装束や武家風の狩装束姿の射手が疾走する馬上から三つの的を射抜くものです。
宮中の儀、路頭の儀、社頭の儀の三つの儀から成り立っていて、現在では宮中の儀は行われていないのですが、路頭の儀、社頭の儀は行われています。
五月十五日、乗尻を先頭にして検非違使、山城使、内蔵寮史生、馬寮使、舞人、近衞使(勅使)、賠従、内蔵使からなる文官、武官の勅使列が牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て、上賀茂神社までの路頭の儀が行われ、下鴨神社と上賀茂神社においては天皇陛下の勅使である賞典職の賞典が祭文を奏上する社頭の儀が執り行われます。

女人列

昭和三十一年(西暦1956)賀茂神社には皇室から斎王が差し向けられっていたことにちなんで、斎王代と女人列が創設され、京都にゆかりのある女性から選ばれて、斎王の代理ということで「斎王代」と呼ばれます。俗に十二単と呼ばれる五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)の装束を着用し、「およよ」と呼ばれる輿に乗って御所から下鴨神社、上賀茂神社までを練り歩きます。斎王代をちゅ神として蔵人所賠従、命婦、女嬬、童女、騎女、内侍、女別当、采女らの」華やかで可憐な行列が行われます。令和元年女人列の女官役の命婦(みょうぶ)を蓮通寺の長女が選ばれて路頭の儀に参加しました。

まとめ

今年は天候により、社頭の儀は十五日に執り行われましたが、一般の人々が待ち望む路頭の儀は十六日に順延となりましたが、上皇陛下も四十五年前の皇太子の頃に葵祭で使用する装束類の展示をご覧になり、路頭の技をご覧になりたいとおっしゃっていたのが、この度実現し、出発が多少遅れたのですが大変お喜びでありました。四年ぶりの路頭の儀で、奉仕する方々も大変でしたが、皆さん頑張って祭りを伝え残していこうという気持ちに溢れていました。これは先祖を想い大事にすることからきているのであり、昨今の何でもお簡単に済ませてしまいがちのことを勘が治さなくてはならないのではないかと感じ、亡くなった方を簡単に郵便で送るだけでなく、きちんと僧侶がお家に伺って、礼拝の対象となる「三つ折り本尊」を授与し、お勤めをしたからお骨を預かり、本坊蓮通寺で納骨して懇ろに供養をずっと行なっていくことは、これからもっと必要になるという気持ちが高まりました。

恭敬の会の送骨 訪問預骨

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