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送骨、訪問預骨の際のお勤め 懐メロ

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2022.10.17

懐メロ

恭敬の会で、僧侶がお伺いしてお勤めをして、お骨を預かってから本坊の蓮通寺に送って、御堂でお勤めして墓地に納骨するのですが、その際にお勤めすることについて、それが頭の中に残って真夜中に目が覚め、寝付けなかったのでテレビを見ていて、たまたまケーブルテレビの番組で、1970年代の歌手のヒット曲10曲ずつを流すというのが映されていて、それがお勤めの和讃に似ていて眠れなくなってその番組終わるまでずっと見入っしまい、朝方まで起きていたという小音がありました。今の若い人たちからしたら、「懐メロ」だと言われるのだろうなといました。

懐メロとは

懐メロとは、年月をある程度経たかつての大衆歌謡で、聞くとその歌が流行した頃が懐かしく思い出されるような歌の総称で、「懐かしのメロディー」の略語で、現代的な用法としては基本的には当代の前に流行していた音楽ポップスの総称とされています。

概要

懐メロという言葉が聴かれるようになったのは、昭和二十年(西暦1945)昭和三十年(西暦1955)にかけてNHKのラジオで放送された「なつかしのメロディー」という番組で、その略称として言われるようになったことからです。子の番組が終了し昭和40年代になり現在のテレビ東京である、東京12チャンネルで放送された「なつかしに歌声」が発端となって、昭和の初めから中頃までの流行歌を再評価する動きが見られるようになり、それに伴って「懐メロブーム」が始まって一般に広まっていったのです。このために当初は「流行歌」の別名であったのですが、「昔の歌」イコール「懐メロ」という定義になっていると思われ、それはそれぞれの人によって捉え方が違っていて、世代よって、蘇に時代時代を感じることで懐メロと感じたりするのであったり、自分の世代の曲となるのです。

流行歌、歌謡曲

流行歌は、明治以降に西洋音楽が浸透してレコード技術が導入され、対象から昭和の初期にかけて大衆文化が発達していき、庶民の娯楽として登場しました。流行歌の「流行」とは、それまでの口伝えによる歌が伝えられていたのから飛躍して、録音再生技術が定着するのとともにラジオ放送が大正十四年に開始されたことが影響しているのです。その流行歌が昭和になりより発展していったのが歌謡曲で、明治時代から大正時代にかけて清元や長唄に対して、都会で作られた大衆歌謡を「俗謡」と言われ、その中で流行したものを「はやりうた」と言われ、西洋音楽が普及せられ、西洋音階と日本の音階を折衷した唱歌が作られ、大正三年(西暦1914)「カチューシャの唄」が大流行して、「流行歌」と呼ばれるようになっていき、それが大正十二年(西暦1923)東亜蓄音機の総目録に「歌謡曲」という表現が現れ、昭和二年(西暦1927)NHKが『新日本音楽』という番組で新作の琴歌や三絃歌謡を「歌謡曲」として放送し、はやるかはやらないかわからない歌をあ(はやり歌)とするのは適当でないとして「歌謡曲」となりました。

演歌

昭和30年代半ばから、歌謡曲の中から大衆芸能として人気となっていったジャンルで、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲で、「艶歌」や「怨歌」とも言われたが「演歌」に定着しました。演歌の音階は西洋音階の七音階から第四音と第七音を外す、四と七を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階で、邦楽的技巧表現と言え、これは美空ひばりが代表的で、小節と呼ばれる独特の歌唱法が多用され必ずビブラートを深くして巧妙に入れるのです。

歌謡曲の歴史

大正時代、関東大震災からの復興とともに東京の近代化が進んで、大阪も近代化が進み、洋風の近代市民層が形成されていき、モダンな都会の文化を歌い込んだ都会賛美調の歌謡曲が流行し、その代表としては「東京港新曲」「銀座の柳」などが挙げられます。それに対して観光客の誘致を目的とした「ご当地ソング」のはしりとなる、旅情を誘う歌謡や新民謡が作られ、その代表としては「波浮の港」「茶切節」などで、海外のものでは「酋長の娘」「上海リル」が挙げられます。戦後になるとラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的な要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせた、フランク永井や石原裕次郎が唄うムード歌謡が一世を風靡し、昭和30年代の後半になると、歌謡曲のジャンルの多様化が進行して、ザ、ピーナッツが歌う「可愛いい花」がその契機となったとされています。
またこの曲は日本における本格的なポップ、ミュージックの曲として話題となって、「和製ポップス」とも言われるようになりました。
昭和四十年代に入ると和製リズム、アンド、ブルースというジャンルも現れて、グループサウンズも大ブームとなって、その後筒美京平や平尾昌晃、三木たかしといった優れた作曲家や、阿久悠、千家和也、なかにし礼といった作詞家が現れて‘歌謡曲の黄金時代を迎えました。昭和四十五年以降になると、フォークやロックが登場しました。

まとめ

懐メロは、日本の歌謡曲のことをいうのですが、それは人によって、また世代によって違っているのであって、私の父がお風呂で歌っていた父が若い頃の歌は、私にとっては古い曲になるのいですが、父にっとっては懐メロで、私が車の中で聞いている70年代後半から80年代の曲は子供たちにとっては古い曲となりますが、私のとっては思い出の曲で懐メロとなります。それはその人にとって懐かしく、その年代に気持ちが戻れるものなんです。これは浄土真宗の我々がお勤めしている、お経や正信偈の後の念仏とともにお勤めしている、「和讃」についても言えることで、「和讃」は、平安時代の後期、源平の騒乱の頃、時の天皇であらせられた後白河天皇が、その当時すごく流行っていた「今様」を好まれ、親鸞聖人もその今様の影響を受けられ、「和讃」を作られ、仏祖や七高僧とよばれる高僧方、和国の教主に聖徳太子に対す想いや感謝の心を綺麗な旋律で示されたことは、言うなれば古い古い「懐メロ」と言えるのではないでしょうか。その懐メロによって、我々は以前を振り返り、今あることを見つめ直し、感謝の念を起こしていけると思うのです。「恭敬の会」は、亡き人やご先祖をただだ送って納骨するだけはなく、僧侶がお伺いし、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧に綺麗にお勤めし、一緒に拝み、お骨を預かって納骨し供養をすることで、古の想いと懐かしさを大切にするのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、懐メロと同じように、以前を想い、感謝していけることなのです。

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