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道元禅師

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2022.08.28

道元禅師について

建長五年八月二十八日(西暦1253)道元禅師が亡くなりました。
道元禅師は、鎌倉時代の禅宗の僧侶で、日本の曹洞宗の開祖です。曹洞宗では「高祖承陽大師」と尊称され、朝廷から頂かれた諡号は「仏性伝東国師」や、「承陽大師」と行って、諱は「希玄」です。

道元禅師の生い立ち

正治二年(西暦1200)、公卿の村上源氏の久我家(五摂家に次ぐ清華家家柄)の男子として山城国乙訓郡久我村(現在、誕生寺になあってます)に生まれられました。幼名は信子丸で、両親についてはいろいろ説明がありますが、父は内大臣であった久我通親、母は藤原基房の娘で藤原伊子で、八幡の松殿山荘で生まれられたともいわれています。
三歳の時父の通親卿を亡くされ、八歳の時には母を失って、異母兄の堀川通具の養子になられました。また、母かたの叔父の松殿師家から松殿家の養嗣子にしたいとの申し入れがあったのですが、世の無常を感じ出家を志して断ったという説もあり、誘いを受けた道元(のちの)が、近くに咲いていた花を群がっている虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えたという逸話もあります。

曹洞宗を開かれるまで

建暦二年(西暦1212)、比叡山内の母方の叔父の「良顕」を訪ねられ、翌年に天台座主公演円を戒師として出家得度して、「仏法房道元」と名乗るようになりました。建保三年(西暦1215)、三井寺の公胤の元で天台教学を修められ、建保五年(西暦1217)には、建仁寺で栄西禅師の弟子の明全に師事するようになって、貞応二年(西暦1223)師の明全とともに南宋に渡り、二年後に南宋の天童如乗の「身心脱落」の語を聞いて真理を会得して悟り、中国曹洞禅の「只管打坐
」の禅を如浄師kら受け継がれ、その問答記録が『寳慶記』に残っています。
安貞伊元年(西暦1227)帰国前夜に『碧嚴録』を書写されて我が国に帰国され、『普勧坐禅儀』を著述されました。
天福元年(西暦1233)深草に興聖寺を開かれ、鎮西太宰府の俗弟子の楊光秀会のために『正法眼蔵』の最初の巻の「現成公案」を執筆されました。
翌年、孤雲懐奘が入門して、達磨宗の人達の入門が相次いで、比叡山からの弾圧を受けられることになり、寛元元年(西暦1243)越前国の地頭の波多野義重の招きで越前志比荘に移り住まれました。翌年には傘松に大佛寺を開かれ、寛元四年(西暦1246)大佛寺を永平寺に改められ、道元から希玄とされました。
宝治元年(西暦1247)から宝治三年にかけて、時の執権の北条時頼と、波多野義重の招請で、鎌倉に向かい、鎌倉で教化されました。
建長五年(西暦1253)病に罹られ、永平寺の住持を弟子の狐雲懐奘に譲られ、遷化されました。
嘉永七年(西暦1854)孝明天皇より「仏性伝東国師」の国師号を頂かれ、明治十二年(西暦18790には、明治天皇から「承陽大師」の大諡号を頂かれました。

曹洞宗

道元禅師の曹洞宗の教義は
道元禅師が南宋で師事してた時、師の天童如浄が、ある時坐禅中に居眠りをしている修行僧に向かい、「参禅はすべからく身心脱落なるべし」と一喝されるのを聞いて真理を会得して悟り、身心脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることで、道元禅師の得法の機縁となりました。「身心脱落」は曹洞禅の極意を表しています。ひたすら座禅するところに悟りが顕現している地いう立場が思想の中核で、これは修証一頭や、本証妙証とも呼ばれていて、七十五巻に及ぶ『正法眼蔵』の中にあるものとされていますが、道元禅師晩年の十二巻本の『正法眼蔵』の中では、因果の重視や出家主義が強調されるようになっています。成仏というのは一定の状態い達するこおで完成とするものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることが成仏の本質で、お釈迦様に倣いただひたすら座禅に打ち込むこと事こそ最高の修行だと主張されています。また、浄土教の最初の出発点である末法思想に地ては、『正法眼蔵随聞記』には、「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に
正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に稀有に浅間師き心根、下根鳴もあり。佛、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と述べられていて、末法を否定されています。
同じ禅宗でも臨済宗との違いは、臨済宗は「公安」という禅問答を手掛かりにして悟りの境地を目指すもので、煩悩に覆われた人間が問答を通して「見性」によって迷いから脱するというものに対し、

まとめ

同じ禅宗でも、臨済宗は「公安」という禅問答を手掛かりにして悟りの境地を目指して、「見性(明らかに見る)」によって迷いから脱するという教えであるのにい対して、曹洞宗は、あくまでただひたすら座禅の行い、座禅そのものが悟りの目的でる「只管打坐」で、坐禅によって自分の心の底が抜けて、自らの仏性を見つけ出すことができるものです。曹洞宗では末法を否定されているので、浄土宗、浄土真宗とは相容れないと思われることがあるのですが、只管打坐のただひたすら座禅するということと、浄土真宗のただひたすら念仏するというのは通じることがあると思います。
「恭敬の会」は、浄土真宗でありただひたすら念仏し、報恩感謝なのですが、その気持ちを表すこととして、亡くなった方々やご先祖を大切にすることから始めるべきで、ただお骨を送ってそれで終わりではなく僧侶がお伺いし、三つ折りご本尊を授与しお勤めしてからお骨を預かり、納骨して報恩感謝の念で供養して表して行くのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、感謝の行いエス。

恭敬の会 送骨 訪問預骨 

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