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鐘について

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2022.07.11

梵鐘(釣鐘)とは

梵鐘(釣鐘)と聞けば、たいてい思い浮かべるのは、京都の街のシーンなんかで五重塔が映り「ゴーン」と音がするのを思われる方が多いのでは無いでしょうか。
確かにっ京都の街には沢山のお寺があり、それぞれのお寺には梵鐘がある(浄土真宗の京都市内の本山から一里以内の末寺や、各宗派の塔頭のお寺にはありません)ので、そういうシーンを思われるのでしょうね。
いずれにしても、和風の際たる音ですね。
年末の番組なんかで、除夜の鐘でこの画像の知恩院の梵鐘を沢山の僧侶が撞くシーンを目にされる方も多いでしょう。

梵鐘の起源

梵鐘はインドでおいて創られ鳴り物として用いられたという説と、中国で創られたという二つの説あある。
インドの祇園精舎(インドのコーサラ国のスダッタという大富豪がいて、土地の持ち主から金貨を敷き詰めたぶんだけ土地を譲ろうと言われ、凄い量の金貨を敷き詰めて譲ってもらい、僧園を建立し、お釈迦さまに寄進した)において鳴り物として使われ人々が集まる合図にしたという説。
中国に仏教が伝わる間に、中国の古来からあった鐘と一緒になって梵鐘が出来上がったという説です。
いづれにしても、仏教の原始教団がその起源で、人々に時を知らせるためと言えます。

時を知らせるために鐘を撞く

中国で、梵鐘の功徳につての故事が残っていて、悪道に堕ちて苦悩暇なく受来る時、金の声を聞いて苦しみ漸時停息だという因縁から、清涼寺の鐘ができたという物語は、「金を鳴らせば一切の悪道の苦患停止す」と説かれた『阿含経』の文と符合すると考えられ、鐘の音を聞けば、たちまちに善念が生ずるので、命終わる寸前の人の前で鐘の鳴らすと良いという伝えもあり、『平家物語』の中に「祇園精舎の金の声 諸行無常の響きあり」と記されているのも、これにちなんでいるのかもしれません。

それが、梵鐘を撞くことで、人々に集まる時を知らせるようになっていきました。

鐘の種類とどのように鳴らせるか

本山本願寺では、毎朝五時に梵鐘が撞かれます。
蓮通寺においては、毎朝六時に梵鐘を撞きます。
毎日、鐘の音を聴いて起きられる方、出勤される方、朝食の支度を始められる方と様々ですが、たまに今日は二分遅かったとかも冗談を言われたりして、日々の暮らしの「時」の目安となって欠かせないものになってます。
18年前、父から住職を受け継ぎ京都から戻った時、朝の六時の鐘を撞くのに、よく遅れたりする夢を見ましたが、最近は鐘撞きの1時間前には目が覚めるようになったからか、遅れる夢も見なくなりました。

毎朝は六時に十一回(九つ目と十回目は、追い鐘と言って連続で撞きます)梵鐘を撞き、晨朝の1時間前を知らせ、晨朝が始まる直前には「喚鐘」(かんしょう)という小さめの鐘を鳴らして晨朝が始まります。
春秋の彼岸会や、住職等の年忌、蟲供養、盂蘭盆会、報恩講などの重要な法要の日は
朝六時に十一回梵鐘、午前十時の日中法要の1時間前には九回の梵鐘、午後二時の逮夜法要の一時間前には七回の梵鐘を撞いて、皆さんにお知らせします。

12月31日の歳末には、午後11時頃から除夜の鐘を撞きます。
除夜の鐘で百八回撞くとよく知られていますが、この起源は『禅林象器箋』に、古来俗説に百八煩悩を成ずるものとして考証してあり、『群談採余』には「鐘声晨黄昏に叩くこと一百八なるは 一歳の義也、蓋し年は十二月あり二十四気あり又七十二候あり」と記されているように、古くからの習慣だと言えます。
又、火事に際には、緊急事態を知らせるために、間合いを入れず連続して何回も何回も撞きます。
梵鐘は時刻を知らせ、喚金は法要が始ま流のを知らせます、
喚姉は、平生の日は 五つうち、虫を起こすように小さくうちだんだん大きくなっていく打上(うちあげ)と打下(うちおろし)と呼ぶ打ち方をして 三打します。
なり終わったら順番に出仕口から内陣や外陣に出資してお勤めが始まります。

喚鐘

これが喚鐘と呼ばれる、小さめの鐘で、蓮通寺のは戦争の時供出しても蓮通寺は残っているので、蓮通寺の石段の下に江戸時代まで存在し、明治になった頃に無住となり
廃寺になった「護国山大聖寺」というお寺のもの(享保八年の銘がある)を残して後世に伝えるために、大聖堂寺の喚鐘を筒の中に埋めて隠し、戦後になって掘り起こし、それを大切に使っています。

まとめ

毎日撞く梵鐘について、蓮通寺の在る地域では日常生活に欠かせないものとして馴染んでいますが、地域によっては、うるさいかとの苦情を言う人がいたりして、撞かれなかったり、行事の時だけしか撞かないと言うようなことになってしまったりの状況になってしまったところがあります。
教会の鐘はうるさいと言わないのに、お寺の鐘はうるさいとは自分の都合や考えだけを主張して心が荒んで廃れてしまい悲しいことです。
このような荒んだ自分の都合だけという心を清らかにし、潤いのある世の中にする一歩としても、恭敬の会があり、納骨、訪問預け骨、送骨があり広まっていくことが大切だと思います。 

恭敬の会

恭敬の会の送骨 訪問預骨

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