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関ヶ原の合戦

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2022.09.17

関ヶ原の合戦

慶長五年(西暦1600)九月十五日、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場に行われた合戦で、石田三成を中心とした西軍と、徳川家康を中心とした東軍が戦い、一日で勝敗が決して、徳川家康が天下を掌握する機会にあり、この戦いに合わせて日本各地で戦いが行われました。

関ヶ原の合戦に至る遠因

関ヶ原の合戦に至る遠因として一番の遠因は、豊臣秀吉には後継者がなかなか恵まれなく、最初の実子は長浜城主になった時に、石松丸秀勝という子が生まれたのですが、六歳で亡くなってしまい、次に淀殿が生んだ鶴松が生まれたのですが、この子も三歳で亡くなってしまい、その次の秀頼が生まれましたが、秀吉は五十七歳で、秀頼が五歳になるときに亡くなってしまったことです。
次は、一族が少なく、頼りとしていた秀吉の弟の秀長が慶長十九年(西暦1591)に亡くなってしまい、身内に頼りとなるものがいなくなってしまったこと。
次子の鶴松が亡くなって、後継者にした甥の秀次を秀頼が生まれたから心配になって切腹させてしまい、身内がほぼ居なくなってしまったことなどが挙げられます。

関ヶ原合戦の直接の原因

慶長三年(西暦1598)豊臣秀吉が亡くなる直前、幼い秀頼を補佐する五大老、(徳川家康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝)と五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)によって政権を運営するように委ねられ、その直後秀吉は伏見城で死去し、頼りとしていた前田利家も翌年に亡くなり、徳川家康が中心となって政務をとるようになっていきました。そこで「太閤様御置目」に従って政権の運営を進めようとする五奉行衆と、それを逸脱して政権の主導権を握ろうとした徳川家康が対立していき、家康は伊達政宗らの大名と進めていた婚姻や、大老、奉行衆の合議によって行われるべき大名の加増を単独で決めたこと、豊臣政権の人質である諸大名の妻子を無断で領国に帰ることを許可したことなどの、秀吉の置目違反を追求していき、前田利家が亡くなる前に家康追求の動きが起こって、一時は前田側と徳川側の武力衝突寸前までいき、何とかそれは収まったのですが対立が深まっていきました。前田利家が亡くなって、加藤清正、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、蜂須賀家政、浅野幸長の七将が石田三成を襲撃し、北政所、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宣らの仲裁で、石田三成は居城の佐和山に蟄居となり、その後慶長四年(西暦1599)家康は大坂城の秀頼に重陽の節句の挨拶をするために大阪城に入城する際に、家康暗殺計画が発覚し、前田利家の後継の利長が首謀者とされ、前田利長を討伐しようとする「加賀征伐」の号令をし、前田利長は弁明し、母の芳し春尼を江戸に人質として差し出し、この件は治りました。この後家康は大坂城に新丸に入って政権を掌握していき、大老奉行の合議で行うべき大名の加増、転封を独断の決定で行うようになりました。その翌年、大老の上杉景勝と家康の関係が悪化していき、家康は上杉征伐を行うべく準備をし、上杉景勝も挙兵し、これに呼応して石田三成も挙兵したのです。

関ヶ原の合戦の経緯

慶長五年(西暦1600)、六月十八日、上杉成伐にむかうため伏見城を出発し、七月一日に江戸に到着し、奥州の諸大名に指示を出し、大坂の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、毛利輝元に「大坂御仕置之儀」のための大坂入りを要請する書状を出し、輝元はその要請を受け七月十五日に広島を出発し、十七日に三奉行は、秀吉の死後、家康が犯した違反の数々を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付し、細川忠興の室ガラシャは奉行衆よりの人質要求を拒否し邸ないで自刃しました。十九日に輝元が大坂城に入って総大将となりました。
それとともに家康の家臣の鳥居元忠が留守を務めていた伏見城をの攻撃が始まり、同日の十九日、徳川秀忠が、二十一日に家康が会津に向け出発し、二十五日下野国小山で後に小山評定と呼ばれる軍議が行われ、上杉征伐の中断と軍勢を西上させることが決定し、参陣していた諸大名は西上し始めました。
七月二十九日石田三成が伏見に到着し、八月一日鳥居元忠が籠る伏見城をが落城し、八月三日には前田利長が西軍の山口宗永が籠る加賀の大聖寺を落城させました。八月五日、家康が小山から江戸に戻って、三成も佐和山に戻りました。八月八日、吉川広家と安国寺恵瓊が長束正家とともに伊勢に出陣し、三成も岐阜城の織田秀信と相談し、尾張方面に出陣し、この時点では浜松で家康と決戦する予定でした。八月二十二日、東軍の諸将は清洲付近に集結して、翌日、織田秀信と戦い、これを破って、織田信秀は降伏しました。八月二十四日、徳川秀忠が信州上田城の攻略をするために宇都宮を出発。八月二十七日岐阜城攻めに参加した諸将に対し、家康と秀忠が到着するまでは戦を控えるように指示を出しました。
九月一日、家康が江戸を出、九月二日、大谷吉継ら七将らが関ヶ原南西の山中村に布陣。九月三日、東軍に寝返った京極高次の籠る大津城への攻撃が始まる。
九月七日、毛利秀元、吉川広家が関ヶ原の南宮山に布陣する。九月十三日家康は岐阜へと軍勢を進める。九月十三日、東西の和睦が成立して、大津城が開城する。九月十四日、小早川秀秋が松尾山に布陣、翌日大谷吉継が関ヶ原に布陣。
九月十五日関ヶ原にて、東西の主力が激突し、小早川秀秋が寝返って大谷吉継を攻撃し、西軍が総崩れとなり、徳川家康が勝利を収める。

まとめ

関ヶ原の合戦は、徳川家康に従う東軍が勝利し、これ以徳川幕府が開かれることになっていく元となりました、沢山の軍勢が集まり、関ヶ原での陣の配置では圧倒的に西軍が有利だったのいに、寝返りが起こってわずか一日で勝敗が決してしまいました。
これはいくら数を用意しようと、完璧な布陣をしようと、結果を決めるのは人の心で気持ちということを現しているのです、この後小早川秀秋は、寝返ったことにより重大な結果を招いたことで、それに苛まれ心が病んで憤死してしまいました。
これは今の人々にも言えることで、簡単だから煩わしいことあないから、と送骨だけで済ましてしまうと、後に後悔の年に苛まれることになるかも知れないのです。
そこで、「恭敬の会」では、僧侶が伺い、礼拝の対象となる三つ折り本尊を授与し、その前で丁寧にお勤めし、お骨を預かって納骨するという、負担は少なく煩わしいことはないけれど、きちんとお供養をできることをいたします。これによって後に後悔の念がでてくることは無くな流のです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨 永代経、永代供養は、心のこもったお供養です。

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