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関東大震災

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2022.09.03

関東大震災

大正十二年(西暦1923)九月一日、関東大震災が起こりました。
幼い頃、祖母から関東大震災の話をしてもらいました。祖母は当時19歳で女学校を卒業して実家の専明寺にいた頃でした。自信を感じたかは覚えてないようでしたが、沢山の人たちが関東地方から貴社の乗って、避難してこられたことなどを一生懸命説明してくれ、私も話を聞き想像力を働かせ、地震の様子は想像できないものの、汽車に沢山の人が乗っておられるとは想像できました。

大震災の範囲

関東大震災の震源地は、伊豆大島北端にある千が崎の北15km付近の相模湾の海底で、マグニチュード7、9で、震度は7でした。湘南海岸の江ノ島では、東隣にあった聖天島が隆起して江ノ島と陸続きになったほどです。
関東大震災は、東京の被害があまりにも大きいので、東京の地震だと思われることがあるのですが、震源地が示すように相模湾から千葉県の房総半島を中心にして広がっていて、その広がりは平成に起きた阪神淡路大震災の10倍以上に及ぶものでした。

大震災の概要

この地震は、死者行方不明者が約10万五千人もの数で、我が国の自然災害史上最悪の地震でした。そのうち火災による死者は9万2千人で、圧倒的に多くて、あとの1万3千人のうち、強い揺れで住宅が倒壊したことによる死者は1万1千人もおられます。後は津波による死者が200〜300人、土砂災害による死者が700〜800人で、それらは神奈川県が大多数です。神奈川県横浜市は震源に使いので、家屋が全壊した数字は東京の10万9千棟に比べて1万6千棟となるのですが、当時の人口は東京市が約220万人だっ他のに対して、横浜市は当時の人口は約42万人で、5分の1だったことから考えると、全壊率は80%以上にもなります。土砂災害は箱根や丹沢山地を中心にして主に発生し、小田原に根府川では根府川駅に裏山が崩れて停車中の汽車が、すぐ横の海に土砂とともに流されたすの人が亡くなったのです。津波も約5メートルにも及ぶもので、多数の使者行方不明者を出しました。

大火災による被害

この大震災は、発生時刻が午前11時58分ということで、昼食の準備をしている最中で、火を使っている家も沢山たあったということもあり、また日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹いて、木造住宅が密集していた当時の東京市15区(麹町区、京橋区、港区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、神田区、日本橋区、下谷区、浅草区、本所区、深川区の15で、ほぼ山手線の内側)で、火災が発生し、水道管の破裂も多かったことから、三日間にわたって火災が続きました。
190万人が被災し、10万五千人もの人がなくなりました。建物の被害は全壊が10万9千棟、全焼が21万2千棟で、浅草の有名な名所であった12階建ての凌雲閣も倒壊し、これ以降は東京タワーと霞が関ビルが建設されるまでは10階がせいぜいとなりました。
火災は、136件起こって、本所区本所横綱町の陸軍被服廠跡地で起こった火災旋風を引き起こしながら広まった火事は、当時の東京市(15区)の43%を焼失して9月3日になってようやく鎮火したのです。
建物は、前述の浅草凌雲閣をはじめとし、建設中のお丸の内内外ビルディングが倒壊し作業員300名が圧死したり、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁、などの観光庁や、東京帝国大、帝国劇場、日本橋三越本店、なども被害が出て、神田神保町や東京帝国大学図書館、大倉集古館なども類焼して貴重な書籍や文化財も失われたのです。

大震災の影響

東京の43%もの家屋が焼失や倒壊で失われ、国家機関が麻痺して政府も対応に追われ大変な状況であった。総理大臣の加藤友三郎は震災発生8日前に死去し、外務大臣の内田康成が臨時兼任し、震災発生翌日に山本権平が新総理に就任し、9月27日に帝都復興院が設置され復興事業に取り組むことになりました。
復興には相当な金銭が必要で、相当な額の外債が注入され、モルガン商会は昭和六年(西暦1931)まで10億円をこえる震災善後処理公債を引き受け、それは当時の日本の国家予算の六割を超えるものでした、またロスチャイルドも参加してのです。日英同盟の頃から軍備などで政府は資金繰りに苦慮していたのですが、この復興事業は国債でも社債でも対外債務を急増させ、これが世界恐慌後の日本のいく末にも影響したとみられます。
またこの震災によって、東京や横浜から大阪や名古屋に移住する人も多くみられて、大阪市は明治時代江戸時代の藩債処分によって大打撃を受けていたのですが、経済も復興し近隣の地域を編入し、移住する人も含めて東京市を抜いて、世界第六位の人口を擁する大都市に躍進し、阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え発展したのです。
また、大打撃を受けた東京市電が機能不全状態だったので、その肩代わりをさせるために、東京市がT型フォードを800台輸入してバス事業を開始し、全国的にバス事業が広まって、輸入したトラックによる貨物輸送も始まって、モータリゼーションが到来したのです。

まとめ

関東大震災は、日本市場も稀に見る大災害で、よくも悪くも日本に変革をもたらしました。建築においては耐震基準が作られ、それが近年強化され、耐震性が制震となり、今では免震に進化したのと、耐火建築が発展していく元になりました。
経済面では、のちの大東亜戦争につながる要因の一つにもなったと思えます。
地震の怖さを知ったことで、鉄道も世界一安全と言われる程になりました。
墓地においては、東京では他の地域のように土に還るということができなくなり、墓石の下にカロートと呼ばれる空間を設け、そこに骨壷を置いておくという形式になり、それがそろそろいっぱいになり、次に納骨するのにどうしたら良いのか、という問題が発生するようになりました。
そのことについては、「恭敬の会」が一つの答えになるかと思います。
現在カロートに入れてある大きな骨壷のお骨を、小さな骨壷にして、大きな骨壷の残りを恭敬の会に預けるのです、そうすればカロート内のっ空間に余裕ができて、新たにお骨を収めることができるのです。
恭敬の会の送骨 訪問預骨 永代経、永代供養は、墓地のある方にも便利で安心していただけることなのです。

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