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高校野球について

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2022.08.08

高校野球

夏のこの時期になるとテレビに釘付けになります。それは高校野球の各地方大会や、甲子園の全国大会です。
高校球児たちが、全国の都道府県大会で勝ち抜き、白球を追って必死にプレーする様子はプロ野球とはまた違った感動を与えてくれます。
一球のために自分のできる限りの力をつくし、最後まで諦めない姿は、大人が忘れていることで、あれを見ていると自分も若い頃があって、熱中した事などを思い出すことができて、夢中になれます。

コロナウイルス感染症のおかげで

一昨年は、甲子園での全国高校野球選手権大会が行われず、去年は無観客で開催でした。あの広い球場で球児たちの一生懸命のプレー、満員の観客応援団、それと応援の歓声と太鼓やブラスバンド、その全部が一緒になって夏の甲子園大会の
雰囲気が出来上がり、テレビでもそれが伝わってくるのでしょうね。今年は観客も入ってコロナ以前と同じとは行かないまでも、それなりに行われ、皆んなに感動を与えてくれるでしょうね。

甲子園大会の沿革

甲子園球場での高校野球大会は、正式には「全国高等学校野球選手権大会」と言いい、朝日新聞社と日本高等学校野球連盟が主催しています。
前身の全国中等学校野球戦県大会は大正四年(西暦1915)に第一回が開催され、昭和二十三年(西暦19480の学制改革によって今の名称になりました。
最初の二回は豊中球場で行われましたが、それ以降は甲子園球場(球場が完成した大正十三年は、八月一日が十干と十二支のそれぞれ最初に当たる「甲」と「子」が六十年ぶりに重なる、甲子 きのえね となった縁起が良いことに由来して甲子園と付けられた、日本で最初に建設された大規模な野球場)で、当時のニューヨークジャイアンツのホームグランドのポログラウンズを参考にして、大会に間に合わせるため突貫工事で建設されました。当初は陸上競技や球技場としても利用される(現在もアメリカンフットボールの甲子園ボウルが行われています)ことを念頭に置いて設計されたので、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーのみが丸みを帯びるという形で、中堅が120メートル、両翼が110メートルに対して、左右間が128メートルもある大きさで、昭和八年にアメリカ大リーグのベーブルースが、日米野球に出場するために甲子園球場を訪れた時に、「トゥーラージ」と言って驚いたようです。



甲子園球場の建設

甲子園大会は最初は旧制中学校の全国大会として、大正四年(西暦1915)に「全国中等学校優勝野球大会」の名前で第一回と第二回が、現在の阪急電鉄の前身の箕面有馬電気軌道が建設、設置した豊中グランドで行われ、他のですが、球場の規模の小ささなどから問題となり、第三回からは阪神電気鉄道が所有していた鳴尾運動場で開催されることになりました。それが人気が出て観客が増え、第九回大会で溢れた観客がグラウンドになだれこむということが起こり、主催者の大阪朝日新聞は本格的な野球場の建設を阪神電鉄に提案したのです。阪神電鉄も鳴尾村に流れていた申川と枝川が廃川となった後にできた埋立地に大規模な沿線開発を行なっていて、野球場を建設する構想を持っていたことから、朝日新聞と阪神電鉄の利害が一致して甲子園球場ができたのです。

全国高等学校野球選手権大会

甲子園での高校野球大会は、大正四年(西暦1915)に始まった「全国中等学校優勝野球大会」を第一回として数えます。
第一回は、東北、東海、京津(京都と滋賀)、関西、兵庫、山陽、四国、九州、の9地区と、春の東京大会優勝校の合計10河野代表で行われ、その後は少しずつ府県、地区が増え、毎年地区の分割、新設が行われました。
第12回からは、北海道、奥羽、東北、北関東、南関東、東京、神静(神奈川と静岡)、東海、甲信越、北陸、京津、大阪、兵庫、紀和(奈良と和歌山)、山陰、山陽、四国、北九州、南九州、朝鮮、満州、台湾、の二十二代表隣、昭和十七年まではそのまま続いたのです。昭和十七年から二十年までは先の大戦で中断となりましたが、昭和二十一年は廃線により台湾、朝鮮、満州を放棄したので、代表は19校となり、甲子園球場も進駐軍に接収されていたので、西宮球場で行われました。昭和二十二年からは進駐軍の接収を解かれたことにより、甲子園で行われるようになり、昭和三十九年には北海道が来た北海道から一校、南北海道から一校となり、昭和四十九年には東京都が東東京から一校、西東京から一校となって、各県からも代表が選出されて四十九代表校となりまあした。

深紅の優勝旗を目指して

高校野球は深紅の優勝旗を目指して、全国の四千校の高校球児たちが一生懸命にプレーするので、一つ一つの動きが真剣で溌剌としていて、見ているだけで気持ちがいいです。毎年毎年テレビに釘付けで見ていますが、一度だけですが甲子園で実際に高校野球を観戦したことがあります。それは中学三年生の時、蓮通寺の門徒さんが通ってる県立伊香高校が、記念大会で各府県から代表校が出ることになり、滋賀県大会でえ優勝した伊香高校が甲子園に出場することになり、蓮通寺の門徒さんで応援バス一台出ることになり、それに私とおsな馴染みも一緒に行くことになったのです。その時の相手はのちに読売ジャイアンツで投手として活躍されることになる新浦選手を擁する静岡商業で、残念ながら負けてしまったのですが、その時みんなが一丸となり応援する凄さに圧倒され感激じました。
その経験からか、高校三年の夏、受験生ではありましたが、幼馴染が選手として出ることもあり、応援団長として団員みんなで声の限りを尽くし心を一つにして応援しました。残念ながら県大会準決勝で敗れてしまいましたが、自分にできることを精一杯できたことは、なんと気持ちよく素晴らしいものだということを学ぶことができました。

まとめ

高校野球は、あの一生懸命な姿と、人々に感動を与えるもので、私もほんの一瞬だけですが応援でその中にいられたことは、とても有難いことで、これは自分にできることで人々に感激してもらえたら、どんなに良いことだろうと思い、自分にできることは、やはり仏様に向かってするお勤めの声明、作法を磨き、それを人々に味わってもらうの如ないのではないかと思うのです。その一つが「恭敬の会」であり、今までご縁が薄かった人たちに、仏様を讃えるお勤めを聞いていただき、感激していただければ、縁が結ばれ、亡くなった人にも、が家族にも安心してもらえると思うのです。
恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、負担が少なく安心につながるのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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